東禅寺の1ー河野氏の遠祖越智益躬が創建

 伊予国司源頼義と河野親経が関わったとされる49の薬師堂の一つとされるのが今治市の東禅寺です。
 東禅寺(とうぜんじ)は今治市蔵敷町(くらしきちょう)2丁目14ー2にある真言宗醍醐派(本山は京都の醍醐寺)の寺院です。東禅寺は「樹ノ本(きのもと)のお薬師さん」と呼ばれます。それは、今治市の文化財に指定されている本尊である等身の薬師瑠璃光如来立像が、寺伝によると奈良時代の天平元年(729)8月に越智玉澄(おちのたますみ)公の命により、行基律師が巡錫の際に霊樹の根幹から等身の尊像を自作したと伝えられていることからです。この寺にも行基が関わっています。しかも天平元年といいますから、繁多寺よりも20年ほど前になりますので、もしかしたら実際に行基がこの地に来たのかもしれません。霊木から尊像を彫ったということから山号も霊樹山といい、薬師如来は医薬の仏ですから醫王院。したがって正式名称は霊樹山醫王院東禅寺。東禅寺は真言宗の寺院ですが四国八十八箇所霊場の札所ではありません。本尊が安置されている本堂の薬師堂は明治37年(1904)8月29日に当時の古社寺保存法に基づく特別保存建造物に指定されていましたが、昭和20年(1945)の今治空襲で焼失しました。
 東禅寺は伊予国の豪族、越智氏、河野氏、今治城主藤堂氏、松山城主松平(久松)氏の帰依を受け隆盛を極めました。
 東禅寺の創建については面白い伝承が伝わっています。推古天皇10年(602)といいますから、聖徳太子が伊予の湯に来てから6年後になります。夷狄鉄人が大陸より兵八千を率いて九州に進攻し京都を窺おうとした時、伊予国司小千(越智)益躬(おちのますみ)公が勅命を受けて兵庫蟹坂の地にて激戦の末これを討ち取りましたが、多数の臣下を失い、その菩提を弔うために堂宇を建立して東禅寺と号したのが始まりとされています。約100年後の慶雲元年(704)に文武天皇はこの時の益躬の勲功を賞し、太政大臣の位を贈られ、東禅寺に隣接する鴨部神社の祭神鴨部大神として祀られました。
 観音堂に祀られている観音像は天智天皇2年(663)、百済の白村江の戦いで日本の水軍が、唐、新羅の連合軍に大敗し、越智郡主越智直公が捕虜となった際に一体の仏様を見つけ、一心に無事に帰れるように念じたところ、その願いが叶い帰国できたため、堂宇を建立してその仏像を丁重に安置したとされています。この話は『日本霊異記』に収められており、越智直公は越智直公(おちのあたいのきみ)ということで固有名詞ではありません。
 延久5年(1073)11月、伊予国司源頼義公、伊予介河野親経公と共に同志して七堂伽藍が再建されています。とあるように東禅寺の伝承では、源頼義と河野親経が協力して寺を復興させたとなっています。また親経の官職については伊予介(いよのすけ)となっています。親経が伊予介に任じられたかどうかは明らかではありません。伊予介に任じられているとすれば、何らかの形で文書に残されていると思います。しかし「愛媛県史」では、親経については史料の裏付けが全くない伝承の人物であるとしています。ただ親経が伊予介であったかどうかは別にして、東禅寺には源頼義と一緒に寺を復興させた人物として伝えられています。

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