紀伊続風土記にみる阿須賀神社(1)ー事解男、事代主は同体?
江戸時代末期に紀州徳川家により作られた地誌『紀伊続風土記』の阿須賀神社に
ついての記述です。漢字は常用漢字に変えています。
(飛鳥社)上熊野地にあり、飛鳥の字嘉元二年の文書に阿須賀と書。按するに飛鳥は旧地名より起れる社号ならん。此地飛鳥川の南の崖なれば飛鳥川の名をとりて社号となせり。祀神は社家の伝へに事解男命早玉男命を祀るといひ、土人は荒き神にて祀りなと疎にすれは祟りありといふ。按するに愛徳山縁起に軍武男阿須賀大明神鰐を斬りて熊野大神を助け奉れる事見えたれは其功を賞して摂社に祀れるならむ。さて大和国高市郡甘南備飛鳥社に事代主神を祀れるを思ふに上に引る縁起に越の舟泊の画作れは夜崩れたるを熊野神作らんと思召して鰐に呑まれし時、阿須賀神其鰐を斬りし事見えたれは崩れやすき浅所の地を守り給ふは事代主神にて大和飛鳥にも祀り、こゝの飛鳥にも祀れるなるへし。又古事記に事代主神は「為神之御座前。仕奉者違神者非也」と見え、神功皇后の三韓の征にも勲功をあらはし給ひ、壬申の乱に天武天皇を守護し給へる事等見ゆれは軍事には勲功多き御神にて縁起に軍武男とあるにもよく合へれは事代主神と思わる。並宮は近世の説に祀神三光神といひて日月星の三神荒祭となりといへとも寛文記に三狐神とあれは三狐三光音近きによりて付会せし説なり。三狐神は倭姫世紀に「宇賀能美多麻神尊形三狐神形也。保食神是也」とあるが如く三狐は三饌津ノ神の義なり。さて此新宮の神事の中に毎年十一月十五日新嘗祭あり、其式は同夜子刻中御前の霊を拝する式卒ありて鐘を撞く時神官相野祢宜等南楼門を出て二手に分れ、一は直に当社に至り、一は御舟島に至りて神供を献し、祝詞を申し諸手舟に乗りて当社の後岸に着す。此時鍋割島といふ海中の巌上にて鍋土器等を割り、夫より社前にて牛を呼び来り耕す真似籾を蒔くまねひ等あり。按するに是は本社飛鳥大神に預れるにはあらて並宮保食神の御霊賜はりて明年の豊作を祈るにて即新宮の新年祭なるへし。河面宮は秦徐福が祈りし霊神といふ。祀神の伝はなし。
さてここに書かれている内容ですが、まず「飛鳥」が「阿須賀」と表記されたのは嘉元二年とあります。嘉元(かげん)は鎌倉時代の1303~1308年の年号で後二条天皇、執権は第10代北条師時。嘉元2年は1304年です。飛鳥の地名は旧地名で、それは飛鳥川の南の崖に神社があることによるとあります。この飛鳥川は地理的な状況から熊野川のことになります。祭神は事解男と早玉男で祀りをおろそかにしたら祟りをなすとあります。そして愛徳山縁起を引用しています。阿須賀大明神が鰐を斬って熊野神を救ったのは事代主神で奈良の飛鳥で祀られ、この地でも祀られたとあります。事解男命と事代主が同一ということです。事代主は浅い所を守っていて、この場所も浅い所だからこの場所の神は事代主だとしています。事代主(コトシロヌシ)は大国主の子で父の国譲りに賛成します。弟は諏訪の神です。事代主の娘は神武天皇の后になります。恵比寿さんとしても知られています。この同体説の根拠は飛鳥ということと、名前に「事」が共通しているからかもしれません。「事」は「言」で神の言葉を聞くことのてきる人、シャーマンを意味します。事代主の別名が八重言代主といい、神武天皇が紀州で討伐したシャーマンの名草戸畔(なぐさとべ)を祀る神社が「中言(なかこと)神社」です。事解男にも「神の事(言)を理解する男」という意味があるように思われます。皆さんはどう思いますか?続きは次章をご覧ください。