伊佐爾波神社の境内社ー常盤新田霊社

 伊佐爾波神社には境内社が3社あり、いずれも末社です。
 まずは常盤新田霊社(ときわにったれいしゃ、愛媛県神社庁では新田霊社)。回廊内南側に鎮座しており、社殿は国の重要文化財に指定されています。祭神は新田義宗、脇屋義治、松平定長です。全て人間です。松平定長は松山藩主で現在の社殿を造営した人です。
 新田義宗(にったよしむね)は新田義貞(よしさだ)の3男です。1331~1368年。生母は義貞の正室。義貞の戦死後は越後の新田一族に匿われて成長したと思われます。長兄の義顕(よしあき)は父に先立ち戦死。次兄の義興(よしおき)は、生母の身分が低かったため、義宗が嫡子として扱われました。義宗は1368年に戦死したと言われています。その場所は群馬県沼田市白沢町高平(しらさわまちたかひら)の「うつぶしの森」です。義宗は決戦中に敵の矢で右眼を射抜かれ、うつぶしに落馬して壮絶な最期を遂げたとされ、それでこの場所が「うつぶしの森」と呼ばれるようになりました。そしてここには義宗を祀る「白佐波(しらさわ)神社」があり、義宗公の木像が御神体として収められています。この場所はもとは利根郡白沢村で、平成17年(2005)に沼田市に編入されました。義宗にはこの戦死の伝承のほかに異説として、出家して一族郎党の菩提を弔い、1409年あるいは1413年に亡くなったといわれ、また阿波に落ち延びたという説もあります。阿波に落ち延びたという説に従えば、同じ四国ですから伊予とも関係があったかもしれません。
 脇屋義治(わきやよしはる)は、新田義貞の弟脇屋義助(わきやよしすけ、新田義助)の息子。義貞は伯父になります。義助は義貞の挙兵に参加して活躍します。そして義貞に従って越前の金ケ崎城に入り、義貞が戦死してからは北陸における南朝方として活動しますが次第に北朝方に押され、美濃、尾張を経て吉野に入ります。父義助が急病で亡くなったため、義治は義貞の息子の義興や義宗と合流して東国を拠点にしますが、上述のように義宗が戦死したので出羽国に逃れます。その後の消息は不明ですが、伊予国温泉郡に逃れたとも言われます。義治がこの神社の祭神となっているのは、義治が伊予国に逃れたという伝承に基づくものと思われます。義治の生まれた年は1323年で、亡くなった年にはいくつかの説があります。
 ウィキペディアによると、南北朝時代に伊予国と深い関係にあった新田義貞をはじめ、その子の新田義顕、新田義興、新田義宗、新田義貞の弟の脇屋義助とその子息の義治を祭神とした神社が愛媛県内に27社(うち13社は境内社)あり、ほかに配祀神として合祀しているものを合わせると41社(うち境内社が18社)あるとのことです。
 新田義貞(1301~1338)は、南朝方の主力武将。足利高氏(後に尊氏)の名代千寿丸(後の足利義詮)を総大将とする鎌倉幕府討伐軍に参加し、北条氏の主力を撃破する手柄を立てます。建武の新政で足利尊氏と対立し、やがて越前国を拠点にしますが、最期は越前の藤島で戦死しました。鎌倉に攻め入るときに、稲村ヶ崎で黄金の太刀を海中に投じて潮が引くように祈ったエピソードが『太平記』にあります。
 


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