源平合戦と鈴木氏(1)ー源氏との深い関係

「平安時代の藤白鈴木氏」からの続きです。藤白鈴木氏は源氏とは深い関係がありました
10代目の重邦は平治の乱が起きた時にちょうど熊野三山に参詣していた平清盛が急いで都に戻るのをサポートしますが、弟の重次(後に触れる重家の次男の重次とは別人)は右兵衛少尉に任官し、保元の乱では源為義(みなもとのためよし)に属して参戦しています。兵衛府は左右の別があり、いわば天皇の親衛隊の役割を果たした役職です。
11代目の重倫(しげのり、しげつね)は重邦の長男。重倫は源義朝に仕え保元の乱と平治の乱では一族あげて源氏方として戦いますが、平治の乱では源義朝は戦いに敗れたため、重倫はまだ幼かった息子の重家らを弟の重善に託して敗走しますが、戦死します。重倫の生まれ年は不明ですが、亡くなったのは平治の乱が起きた1159年です。
鈴木重善(しげよし)は三河鈴木氏の初代当主になります。重邦の三男です。兄から託された甥の鈴木重家と亀井重清を育てます。重善は源義経に仕えており、その関係で義家と義清も義経と行動を共にして奥州平泉に下向します。重善も後を追って平泉に向かいますが、三河国矢作(やはぎ)まで来たとき足を痛め数日逗留している間に義経、重家、重清らが討死したことを聞き、奥州行きを諦めてこの地に土着しました。それが三河鈴木氏の起こりになります。
保元の乱(1156)は、皇位継承を巡る対立から崇徳上皇方と後白河天皇方とに朝廷が二分されて争い、崇徳上皇方が敗れました。このとき源為義は崇徳上皇方の主力として戦ったため長男の義朝によって処刑されます。鈴木重次は源為義に従ったとありますから戦死しているかもしれません。為義の息子は義朝で、義朝の息子は頼朝や義経です。また為義の娘は丹鶴姫、または鳥居禅尼と言い、彼女についは「御船祭の早船」で触れております。藤白鈴木氏では重次がどういう事情で源為義に接近したのかは分かりませんが、重倫は為義の長男義朝に従い、重倫の息子は義経と一緒に行動しています。
平治の乱(1159)では、源義朝が平清盛に敗れ結果として平家の全盛時代を迎えることになります。
鈴木重倫の子供の鈴木重家(しげいえ)と弟の亀井重清(かめいしげきよ)は源義経の郎党として平泉の衣川の館で義経と運命をともにします。ただし義経も生き延びてその後ジンギスカンになったという話があるように、重家も衣川では死なずに生き延びてその子孫が鈴木氏を名乗ったという話があります。これはあらためてご紹介します。源平合戦のもう一人の当事者である安徳天皇も生き延びたという伝承があります。なんとしても助かってほしいという人々の願望の表れです。
重家は重倫の息子で、通称を「鈴木三郎」と言いますから、三男かもしれません。生まれた年は不明ですが、亡くなったのは史実では義経と最期をともにした文治5年(1189)です。重家と義経との出会いは、義経が幼少時代に熊野往還の際に藤白の鈴木屋敷に滞在したことがきっかけで、義経が頼朝の軍に合流する際に義経に請われて付き従い、一の谷や屋島の戦いで手柄を立て、最終決戦の壇ノ浦の戦いでは熊野水軍を率いて勝利に貢献します。その功績により甲州に領地を与えられます。義経は平家滅亡後、頼朝と不和になり平泉の藤原氏を頼って奥州に逃れますが、重家は義経が気がかりになり、所領を捨て、妻子も熊野に残し、弟の重清、叔父の重善とともに奥州行きを決意して、文治5年(1189)に奥州に向かいます。そして同年に藤原泰衡(やすひら)が衣川の館を襲撃した際に、義経、武蔵坊弁慶、弟の重清らとともに討死します。重善は前述のように三河に留まり、平泉には行っていません。重家の亡くなった場所は「伝鈴木三郎重家松跡」として平泉の中尊寺の飛地境内になっています。






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