穴穂部皇子の野望ー敏達天皇の殯宮での出来事

 『日本書紀』の敏達天皇紀の終わりに、〈穴穂部皇子欲取天下、發憤称曰「何故事死王之庭、弗事生王之所也。」と書かれています。穴穂部皇子が天皇になろうとする野心を持っていて、「何故に死する王に仕え、生きる王(自分)に仕えないのか」と憤慨したということになります。穴穂部皇子とはどういう人物なのでしょうか。
 穴穂部皇子(あなほべのみこ)は、生まれた年は不明ですが、亡くなったのは用明天皇2年(587)6月7日。穴穂部皇子という表記は『日本書紀』によるもので、『古事記』では三枝部穴太郎王(さきくさべのあなほべのみこと)。また『日本書紀』欽明天皇紀では住迹(すみと)皇子、用明天皇紀では皇弟(すめいろど)皇子とも書かれています。 
 穴穂部皇子の父は欽明天皇で、母は蘇我稲目の娘の小姉君。異母兄(母は石姫)に敏達天皇と用明天皇(母は稲目の娘の堅塩媛。小姉君とは姉妹になります)がいます。また同母姉に欽明天皇の第三皇女で用明天皇の皇后、聖徳太子の生母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)がおり、同母弟に崇峻天皇、同母兄に茨城皇子(うまらきのみこ)と葛城皇子(かずらきのみこ、かつらぎのみこと)がいます。この系譜から言っても穴穂部皇子が皇位に就くことを望んだとしても不思議はありません。ところが、敏達天皇の後には大臣▪︎蘇我馬子の推す大兄皇子(用明天皇)が即位します。敏達天皇が崩御しての翌月の9月のことです。穴穂部皇子はこれに対抗して馬子のライバルの物部守屋と結びます。
 用明天皇元年(586)5月、穴穂部皇子はとんでもない行動に出ます。敏達天皇の皇后として殯宮にいた炊屋姫(かしきやひめ)を犯そうと殯宮にやってきます。炊屋姫は穴穂部皇子の母と姉妹の蘇我稲目の娘の堅塩媛の娘ですから、穴穂部の皇子にとっては母方のイトコになり、どちらも父親は欽明天皇ですから、父方では「きょうだい」になります。母親が違いますから結婚することは可能です。炊屋姫は後に即位して推古天皇になります。
 さて、穴穂部皇子は殯宮に入ろうと七度門を叩きますが、殯宮を警備していた三輪逆(みわのさかう)に拒まれて入ることが出来ませんでした。それに激怒した皇子は、三輪逆は不遜であるとして馬子と守屋に三輪逆を処罰するように訴えます。馬子はこれに同意します。守屋は兵を率いて用明天皇の皇居のある磐余の池辺の地を包囲しますが、彼は逃れて炊屋姫の海柘榴市にある別邸に隠れます。ところがその隠れた場所を密告されてしまいます。居場所を知った皇子は三輪逆と二人の子供を殺すように守屋に命じます。守屋は兵を率いて三輪逆が隠れている場所に向かいます。皇子はその結果を聞こうと守屋のもとへ赴こうとしますが、これを知ってかけつけた馬子と皇子の屋敷の門前で出会います。馬子は「王者は刑人と近づくべからず」と皇子に諫言します。しかし皇子はこの諫言を聞き入れなかったので、馬子は仕方なく皇子について行き、磐余に着いたところで再度諫言します。今度は皇子もその諫言に従い、胡床に座り守屋を待ち、戻ってきた守屋から三輪逆を斬ったとの報告を受けます。これについては皇子自身が三輪逆を射殺したと書いている文献もあります。馬子はこの出来事について「天下の乱は近い」と嘆きますが、守屋は「汝のような小臣の知るところにあらず」と答えています。

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