阿須賀王子と呼ばれた阿須賀神社
平安時代の藤原宗忠(ふじわらのむねただ)の日記『中右記(ちゅうゆうき)』天仁2年(1109、堀河天皇)10月27日条に「参阿須賀王子奉幣」とあり、また『平家物語』巻十には平維盛が「明日社伏し拝み」とあります。藤原宗忠(1062~1141)が書いた日記が『中右記』で、中御門(なかみかど)右大臣日記から『中右記』。この日記は堀河ー鳥羽ー崇徳天皇の時代の重要な史料です。宗忠は熊野三山に参詣し、阿須賀神社にも参詣したわけです。平維盛は清盛の孫で、父は平重盛。『平家物語』によると平家の都落ちの後、一族から離れ、高野山で出家し、熊野三山に参り、那智で入水します。本宮から船で新宮に下り、神倉山のあと明日社に参り、那智に向かったということです。
阿須賀神社は「阿須賀王子」、「明日社」と呼ばれ信仰の対象となっていたことが分かります。維盛は宗忠より少し後の人ですが、どちらも平安時代末期、上皇による熊野御幸が盛んであった時代です。御垂迹縁起ができ、本地垂迹説による熊野権現の枠組みが成立した時代になります。
それから少し後、『修明門院(しゅめいもんいん)参詣記』に阿須賀王子が登場します。鎌倉時代に入った承元(じょうげん)4年(1210)5月4日に修明門院が早朝に速玉大社に参詣し、那智に向かいます。その間に、阿須賀王子、高蔵王子、佐野王子、一及野(市野々)王子に参詣しています。市野々は「那智の扇祭り」で扇神輿の「扇指し」を務める地区で、那智山の麓です。かなりの速度で移動しています。
阿須賀王子では奉幣を行い、祢宜が祝詞を奏上して、御正体(みしょうたい)を祢宜が懸け、納経供養、御神楽を奉納しています。時間をかけて丁寧に参詣しています。御正体とは、阿須賀祭神の本地仏の大威徳明王の尊像。懸けたとありますから、立像や坐像でなく、レリーフですね。
修明門院は藤原重子(ふじわらのじゅうし、しげこ)といい後鳥羽天皇が最も愛した女性で、天皇との間に出来た守成(もりなり)親王はこの半年後に即位します。それが順徳天皇です。後鳥羽上皇は熱心な熊野信者でしたが、彼女も11度熊野に参詣しています。この数字は女院(にょいん)としては鳥羽天皇の后待賢門院(たいけんもんいん)に次ぐ数字です。後鳥羽上皇と一緒の時もありますが、この時は単独です。息子の即位を前に熊野権現にお願いすることがあったのでしょうね。後に承久の乱で後鳥羽も順徳も配流になりますが、彼女は都に留まり順徳の子を養育して82歳で亡くなります。熊野に11度も参詣できるくらい頑健な女性だったのでしょう。彼女の母は平家一門の出ですから、熊野信仰は母の影響もあったかもしれません。和歌山の縁で言いますと、彼女は明恵上人に帰依しています。
この参詣記を書いたのは藤原頼資(ふじわらのよりすけ)で、広橋家の祖であり、広橋頼資とも言われます。自らも熱心な熊野信者で20回熊野に参詣しています。
熊野信仰では王子という言葉がよくでてきます。有名なのは、参詣道に設けられた九十九王子です。阿須賀王子は九十九王子の一つではありません。熊野十二所権現の五所王子、また御垂迹縁起に家津王子とありますが、それと同じ意味です。本来は祭神の御子ということですが、同時に若い神というニュアンスがあります。