榎本氏と宇井氏のルーツは大伴氏

榎本氏は大伴氏の一族で、その発祥地は山城国乙訓郡(おとくにぐん)榎本です。榎本郷は現在の京都市伏見区淀。榎本の名前が出てくる最も古い記録は大伴榎本大国(おおとものえのもとのおおくに)で、朴本とも表記されます。生没年不詳ですが、壬申の乱に際し、吉野から美濃に向かう大海人皇子の一行に猟師20数名を率いて合流したとあります。後に大伴を省略して「榎本連」と称するようになります。伝承では、孝昭天皇の時代に漢司符将軍の嫡子真俊が熊野権現を榎木の本に勧請したので榎本の姓を賜り、二男基成が餅を供えたので丸子の姓を賜ったとあります。この伝承では榎本氏と宇井氏の初代は漢司符将軍となっています。榎本氏に関しては、『日本霊異記』下巻十に私度僧の「牟婁の沙弥」という人物が登場しますが、この人物は榎本氏の出身です。また榎本真継は実は最澄であるとの伝説があります。最澄は滋賀県大津市坂本の生まれで、誕生地には生源寺(しょうげんじ)がありますから、あくまでもこれは伝説ですが、こういう伝説が生まれたのは熊野三山と天台宗との深い関係からだと思われます。
宇井氏の本姓は丸子氏で、丸子氏には古代豪族の大伴氏の系統と武蔵江戸氏の系統があり、熊野の宇井氏は前者になります。
大伴氏の始祖は道臣(ミチノオミ)命で、『日本書紀』に神武軍の大和入りに功績があったとして、それまで日臣と言っていたのを、神武から道臣の名前を賜った人物です。
大伴氏系統の丸子氏は陸奥、紀伊、信濃、相模に点在し、継体天皇の擁立に功労のあった大伴金村の子の糠手古(ぬかでこ、あらてこ)の子の加爾古が紀伊国の丸子(仲丸子)氏の祖になります。その後に宇井氏を名乗り、熊野から房総半島に拠点を持ち、現在は全国に1800家あるそうです。宇井氏に関しては、宇井邦夫氏による『宇井氏今昔物語』が2020年に水曜社から出版されています。
鈴木氏の本姓が穂積氏であるのに対して榎本氏と宇井氏の本姓は大伴氏ということになります。大伴氏とはどういう氏族なのでしょうか。
大伴氏というと奈良時代の家持(やかもち)が有名ですが、その始祖は天孫降臨に際して先導役を務めた天忍日命(アメノオシヒ)です。アメノオシヒはタカミムスヒの子供であるとされています。道臣は彼の子孫になります。大伴氏の本拠地は摂津国住吉郡で、大伴金村が隠居して住んだのが現在の帝塚山(てづかやま)です。帝塚山は大阪市阿倍野区南西部から住吉区北西部にかけての地域です。道臣が神武の大和入りの功労により、大和国高市郡築坂邑(つきさかむら)に宅地を与えられたと『日本書紀』にあり、後に大和国の磯城•高市郡に移住したものと想定されます。築坂邑は桃花鳥坂邑とも書かれ、現在の橿原市鳥屋町(とりやちょう)付近で、近くに新沢千塚(にいざわせんづか)古墳があります。
「大伴」は「大きな伴造(とものみやつこ)」という意味で、朝廷に直属する多数の伴部(ともべ)を率いていたことに因みます。物部氏と共に朝廷の軍事を掌握していたと考えられています。なお朝廷の軍事において、大伴氏は親衛隊的な役割を持ち、物部氏は国軍的な性格を持っていました。大伴氏は宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を担っていたということになります。
和歌山市片岡町に「刺田比古(さすたひこ)神社」という式内社があります。この神社の現在の主祭神は道臣と大伴佐氐比古命です。大伴佐氐比古(サテヒコ、狭手彦)は大伴金村の息子です。神社の名前の「刺田比古」は道臣の父であり、道臣もこの地で生まれたとの史料があります。これについては改めて考えてみたいと思います。
ここまで熊野における神武伝承のうちの高倉下に関連する伝承について書いて来ましたが、もう一人の立役者である八咫烏について述べていきます。その前に気分転換と個人的な興味から、江梨鈴木氏の記事の中の「大瀬神社」で書いています「伊豆の七不思議」にご案内します。



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