伊勢熊野同体説
御垂迹縁起は、甲斐国の本宮神領が舞台となった訴訟について、朝廷から諮問を受けた明法博士が当事者から聴取した内容を基に作成し、朝廷に提出しました。
当事者は原告の本宮の代表者と被告の国司です。この時代の国司は任地に赴任せず京都にいました。また本宮側も聖護院やその鎮守の熊野神社がありますから、こちらも在京です。熊野に行く必要がありませんから事情聴取にもそれほど時間はかからなかったと言えます。本宮側は、御垂迹縁起を提出するとともに、熊野の神は伊勢の神と同体であるということを主張したようです。博士は全面的にこの主張を採用して、国司は極刑に処すべきであると答申します。これを受け取った朝廷はビックリ仰天!まさに想定外の事態に直面します。同体とは中身が一緒ということになります。それでこの事に絞って朝廷はさらに有識者に諮問します。結局7名が8通の回答を提出します。5名が同体説、これには最初に諮問された博士も含まれます。2名が非同体説。なんと同体説が多数派でした。多数決なら同体説に決定!しかし朝廷が出した結論は非同体説に軍配をあげました。その背景として、非同体説を唱えた、二人の存在。1人は儒学者として知られていた清原頼業(きよはらのよりなり)、この人は亡くなってから車折明神(くるまざきみょじん)として祀られたそうです。凄い人物だったのでしょう。もう一人は太政大臣藤原伊通(ふしわらのこれみち)です。彼は関白藤原忠通(ふじわらのただみち)と共に二条天皇に信頼された人で、天皇は実父で熱心な熊野信者である後白河院と対立していたことが背景にありそうです。ただこの人はかなりユニークですから、よかったら検索して調べてみてください。この二人の答申は同体説より後に提出されたそうですから、いわば後出しじゃんけんみたいです。その他に考えられることとしては、伊勢神宮は天皇から斎宮が派遣されるほどの特別待遇ですから、同体となれば熊野にもそれなりの待遇をしなければならないこと、さらに同体説を採れば、最初の答申にあったように国司を極刑にしなくてはならないが、島流しで済むということもあります。同体説は熊野側から出てきます。その背景として、当時盛んであった上皇の熊野御幸を追い風に神社のレベルアップを図ったものと言えます。伊勢はいわば紀伊半島にあると言えますから、伊勢から熊野への参詣路を通じて「伊勢へ七度(ななたび)、熊野に三度(さんど)」と唄われるように交流がありました。伊勢の内宮に行かれた方は商店街の「おはらい町」にも行かれたと思います。この中ほどに大きな屋敷があります。神宮の祭主職舎です。非公開です。ここは明治の初めまで、慶光院(けいこういん)という臨済宗の尼寺でした。神宮には20年に一度の式年遷宮がありますが、戦国時代の戦乱でそれが百年以上中断しました。それを復活するために募金活動を行ったのが慶光院の尼僧です。この人はもともと熊野に住んでおり、そこで募金のノウハウを学んだと思われます。同体説は否定されても、伊勢と熊野はつながっていると言えます。実際に熊野では天照大神が祀られています。そのことはまた後で。
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