蘇我馬子と物部守屋ー敏達天皇の殯宮での出来事

 蘇我馬子と物部守屋は、当時の史料を見る限り、典型的なライバルであり、性格も水と油のような関係にあったようです。欽明天皇時代に端を発した仏教を受容するか否かお互いの親の対立を引き継いだことに加え、馬子と守屋は皇位継承を巡る対立も加わって抜き差しならない状況になり、最終的には馬子による守屋討伐という結末を迎えます。その状況をみていくことにします。
 『日本書紀』によると、敏達天皇十四年(585)秋八月乙酉朔己亥、敏達天皇が病気になり、大殿で崩御し、殯宮(もがりのみや)が廣瀬に設けられて葬儀が行われ、蘇我馬子は佩刀(はいとう、刀を腰に帯びること、またその刀のことを言います)して誄言(しのびごと)を奉ります。それを見て守屋は、「猟箭がつきたった雀鳥のようだ」と笑います。次に物部守屋が体を震わせて誄言を奉ると、それを見て馬子は「鈴をつければよく鳴るであろう」と笑います。『日本書紀』の原文では、「馬子宿禰大臣、佩刀而誄。物部弓削守屋大連、听然而咲曰、如中猟箭雀鳥焉。次弓削守屋大連、手脚搖震而誄。搖震、戦慄也。馬子宿禰大臣咲曰、縣鈴矣。由是、二臣微生怨恨。」となっています。ウィキペディアでは「由是、二臣微生怨恨」(これによって馬子と守屋は恨み合うようになった)とあることから、2人の対立は崇仏論争とは関係がないとする説も内在すると書いています。
 敏達天皇の殯宮で、蘇我馬子と物部守屋がそれぞれ誄を奉った時に、お互いに嘲笑しあったという日本書紀の記述が真実としたならば、ヤマト政権を代表する実力者の言動としては大人げないというか幼稚な話に思われます。
 『日本書紀』ではこの後に続いて「三輪君逆、使隼人相距於殯庭。穴穂部皇子欲取天下、發憤称曰「何故事死王之庭、弗事生王之所也。」とあって敏達天皇紀を終えています。この文章で注目されるのは「穴穂部皇子欲取天下」という部分です。穴穂部皇子が皇位を狙ったということですが、これについては章をあらためて書くことにします。
 敏達天皇は皇居内の大殿で亡くなり、殯宮が廣瀬に設けられたとありますが、『日本書紀』では具体的な場所は書かれていません。廣瀬にちなむものとして、奈良県北葛城郡広陵町(こうりょうちょう)に広瀬という地名があります。殯宮につながるような遺跡はありませんが、敏達天皇の廣瀬の殯宮で調べると広陵町という地名が出てきます。広瀬の最寄り駅は近鉄田原本線の「箸尾(はしお)駅」か「但馬(たじま)駅」です。もう一つは廣瀬大社です。住所は北葛城郡河合町川合99。式内社(名神大社)で旧官幣大社。主祭神は若宇加能売命(わかうかのめのみこと)ですが、相殿神として櫛玉命(くしたまのみこと)を祀っています。櫛玉命は社伝では饒速日命のことであり、廣瀬大社の社家の樋口氏は物部氏の末裔です。ここで物部守屋とのつながりが出てきます。廣瀬大社は「お砂かけ祭り」で知られています。場所はJR大和路線「法隆寺駅」南口から東南3km徒歩約30分、または近鉄田原本線「池部駅」下車東北へ2.5km、徒歩約25分です。


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