日本最初の尼の善信尼
善信尼(ぜんしんに)は敏達天皇3年(574)に生まれ、没年は不詳です。名前は嶋(しま)。父は司馬達等、仏師の鞍作止利は甥になります。敏達天皇13年(584)11歳の時に高句麗の僧で当時還俗していた恵便(えびん)を師として善信尼と名乗ります。この時に禅蔵尼(ぜんぞうに)と恵善尼(えぜんに)も出家し、彼女ら三人は日本最初の僧尼となります。日本で最初に出家して僧侶になったのは男性でなく女性だったということはもっと注目されてもいいのではないでしょうか。
仏教は日本に伝来した後に、病気が流行したことで排仏派によって蘇我稲目が祀っていた向原寺が焼かれ、仏像も難波の堀江に捨てられて弾圧されていましたから、善信尼らの出家は仏教を興そうと考える馬子の様々な手立ての一環でした。善信尼らは馬子の庇護のもと、池辺永田と司馬達等のもとで衣食を供されています。善信尼らが出家したこの年に馬子は邸宅の東に仏殿を作り、弥勒菩薩の石像を安置し、その時に3人の尼はその場に呼ばれます。僧尼をもてなすことは仏教の実践では大切なことで、馬子▪︎永田▪︎達等らは3人の尼を篤く尊崇しました。
上述の内容は『日本書紀』の敏達天皇十三年九月条の記述に基づいています。
原文では、秋九月、従百済来鹿深臣[闕名字]、有弥勒石像一躯。佐伯連[闕名字]、有仏像一躯。是歳、蘇我馬子宿禰請仏像二躯、乃遣鞍部村主司馬達等▪︎池辺直永田、使於四方、訪覚修行者。於是唯於播磨国、得僧還俗者。名高麗恵便。大臣乃以為師。令度司馬達等女嶋。同善信尼[年十一歳]。又度善信尼弟子二人。其一、漢人夜善之女豊女、名曰禅蔵尼。其二、錦織壺之女石女、名曰恵善尼[壺、此云都符]。馬子独依仏法、崇敬三尼。乃以三尼付永田直与達等、令供衣食。経営仏殿於宅東方、安置弥勒石像。屈請三尼大会設斎。此時、達等得仏舎利於斎食上。即以舎利献於馬子宿禰。馬子宿禰試以舎利置鉄質中、振鉄鎚打。其質与鎚、悉被摧壌。而舎利不可摧毀。又投舎利於水、舎利随心祈願、浮沈於水。由是、馬子宿禰▪︎池辺永田▪︎司馬達等、深信仏法、修行不懈。馬子宿禰、亦於石川宅、修治仏殿。仏法之初、自茲而作。とあります。
『日本書紀』のこの文章によれば、蘇我馬子は鹿深臣が百済から持ってきた弥勒菩薩の石像と佐伯直が持っていた仏像をもらい受けて、それを祀るために池辺永田と司馬達等に仏教の修行者を探させた結果、播磨国に住んでいる髙麗からの帰化人で当時還俗していた恵便を見つけて馬子は恵便を師にし、同時に善信尼ら三人の女性を出家させ、三人の尼を池辺永田と司馬達等に世話をさせました。馬子は鹿深臣から譲られた弥勒菩薩の石像を自宅に仏殿を作りそれを祀り、その時の法会に三人の尼を招きます。その時に司馬達等が仏舎利を馬子に献上します。仏舎利とは釈迦の遺骨ということですが、釈迦の遺骨には限りがありますから、遺骨によく似た宝石や貴石などを代替にしています。馬子は試しに仏舎利を鉄製の容器に入れて鉄鎚で叩いたところ、器や鎚は壊れてしまいましたが、仏舎利は無傷であり、また水の中に投げ入れても沈まないという奇跡を見て仏教を深く信仰したということがわかります。『日本書紀』には、佐伯直から譲られた仏像については、どういう仏像であり、その後どうなったかは書かれていません。