「那須のことや」ー綾織神社の由緒

 綾織(あやおり)神社は、栃木県大田原市(おおだわらし)北滝(きたたき)1818に所在します。主祭神は豊玉彦命▪︎豊玉姫命。配神は大山咋命▪︎不動明王▪︎山廼諸神。
当社について、『下野神社沿革誌』(明治三十六年1903巻八ー47丁)には次のように書かれています。
黒羽町大字北滝御手谷鎮座 無格社 綾織神社 祭神豊玉彦命豊玉姫命 祭日四月八日八月八日 建物本社石寳殿 鳥居一基 氏子七十五戸總代三員 社掌瀧本政雄住所仝上 社傳に曰く本社は持統天皇の御宇此里に館野寳賢と云ふ長者あり   其子女に綾姫と云ふありて機業裁縫に熱く心を傾けるを以て父寳賢が子女の其道の熟達を祈んか爲めに御手谷乃高山に綾織姫大明神を勧請し倍々宗信するにより子女能く機縫養蚕に上達し綾絹を織り出しゝかは其名近郷に高く遠近の子女皆教を受けて其業を擴むと云ふ 往昔余に那須絹と称せしは此里に始むと云々 今に機縫養蚕家は信仰して毎年四月八日より八月八日まで詣するもの蝟集す 本社は北瀧の東端字御手谷の山にありて社域九十六坪高丘の地にして本社の前に綾織池の舊跡あり古昔は水漫々たる湖水にて上下に二瀑布ありしを以て上下瀧村と称せしと云ふ 而るに延寳二年1674の秋暴雨にて山崩れ湖水漲り出て今は小なる池(池地九十坪)を存するのみ 因に云ふ舘野長者數せを經て舘野御前の代に至り康平年中安倍頼時に荷擔せしを以て源頼義に亡ぼされ今に其舘跡を字舘野御前と称す 且上瀧下瀧兩村を合併し明治維新の始めに北瀧村と號す 后明治廿二年中一の自治區に入り黒羽町とはなれり とあります。
 柳田國男は『日本の伝説』の中で、この神社のことを「那須のことや」と書いていますが、地元では通称として「こてやさん」と呼んでいるそうです。「こてやさん」の名前の由来は神社の鎮座している場所が「御亭山(こてやさん)」であることによります。御亭山は緑地公園になっています。
 『下野神社沿革誌』に書かれている舘野寳賢ですがそのプロフィールはよくわかりません。また源頼義に滅ぼされたという舘野御前も同様です。舘野御前は安倍頼時(あべのよりとき)に荷担したため滅ぼされたとなっています。安倍頼時は安倍氏の棟梁で、奥六郡を支配する俘囚(ふしゅう)でした。俘囚というのは、陸奥▪︎出羽の蝦夷のうち朝廷の支配に属するようになった者を言います。したがって安倍頼時は蝦夷(えみし)ということになります。永承6年(1051)に安倍氏と朝廷から派遣された陸奥守の藤原登任(ふじわらのなりとも)との間に争いが起こり、これがきっかけとなり前九年の役(ぜんくねんのえき)へと発展します。翌年には源頼義が陸奥守になり、安倍氏が朝廷に逆らった罪も時の後冷泉天皇の祖母の上東門院(藤原道長の娘の彰子)の病気快癒祈願の大赦で許されます。ところがその後再び争いになり、安倍頼時は討死し、息子の貞任(さだとう)が父の後を継いで頼義と戦います。康平(こうへい)5年、貞任が拠点にしていた衣川柵(ころもかわのさく)▪︎鳥海柵(とのみのさく)▪︎厨川柵(くりやがわのさく)か頼義によって破られ、貞任も戦いの傷がもとで亡くなります。一緒に戦った弟の宗任(むねとう)は捕虜になり、流罪に処せられます。舘野御前はこの戦いで安倍氏についたということですから俘囚だったのかもしれません。また安倍氏の拠点であった3つの柵は現在の岩手県になりますから、栃木県北部にいた舘野御前が遠く離れた安倍氏の軍に参加しているということもそれを裏づけているように思います。

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