伊佐爾波神社への行幸は子作りのため?
愛媛県神社庁のサイトにある伊佐爾波神社の説明です。
神社主な祭礼 10月5日宵宮 10月6日例祭 10月7日神幸祭 神社祭神 足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと) 気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと) 誉田別尊(ほむたわけのみこと) 市杵島姫尊(いちきしまひめのみこと) 湍津姫尊(たぎつひめのみこと) 田心姫尊(たごりひめのみこと) 神社境内社 高良玉垂社 新田霊社 素鵞社 神社御神徳 安産 心願成就 交通安全 神社特殊神事 5月17日早苗祭
神社由緒 仲哀天皇 神功皇后とともに道後温泉に行幸のとき沙庭を立てて天神の勅を請奉ったので沙庭神社、即ち伊佐爾波の神社と称し、又、湯月八幡宮とも称えた。皇后は行宮に湯殿を設け、温泉を汲んで浴したもうたので御懐妊になり、後の応神天皇の御誕生があったという。明応年中河野家より社殿造営があり、それ以前は小千元興が社殿を改造した。延久5年源頼義は河野親経に命じて社殿を再造、慶長8年加藤嘉明が社殿を修理し、社領百石を寄進した。寛文7年松平定長は現在の社殿を建造し、社領二百石を寄進した。昭和31年6月本殿が国の重要文化財に指定、昭和42年6月全体が追加指定を受けた。とあります。
愛媛県神社庁の上記の説明によると、伊佐爾波という社名の由来として、仲哀天皇と神功皇后が当地に行幸したときに「沙庭(さにわ)」を立てて、神勅を伺ったことから、沙庭神社と称したとあります。この話から連想される出来事として、筑紫の橿日宮で神功皇后が神懸かりして、神が熊襲を討つよりも朝鮮半島を攻略するように神託を下しますが、仲哀天皇はそれを信じなかったため神の怒りに触れて急死したという話が記紀にあります。橿日宮の沙庭では神懸かりする神功皇后、琴を弾く仲哀天皇、皇后を通じて神の言葉を聞く武内宿禰が登場します。沙庭は神の言葉を聞く神聖な場所であり、その場所がここに設けられたということになります。神功皇后は霊能者だったようですから、しばしば神懸かりをして神の言葉を伝えていたのでしょう。この時の沙庭では神がどのような神託を下したのかはわかりませんが、もしかしたら皇子の誕生を予言したのかもしれません。神功皇后は仲哀天皇2年に皇后になりますが、なかなか子供が出来ません。この時期は仲哀天皇は熊襲征伐のため神功皇后とともに穴門豊浦宮にいました。それで子作りのために温泉に来たのではないかと思います。それを示唆する記述として神社庁のサイトでは、行宮に湯殿を設けて入浴したので懐妊したと書いています。仲哀天皇と神功皇后の来湯は、行宮を建てていますから、かなり長期滞在であったと思われます。そしてその時期は、仲哀天皇が熊襲征伐に乗り出すために豊浦宮から筑紫の橿日宮に移るのが仲哀天皇8年1月ですから、おそらくはその前年ではないかと思います。なお神功皇后は4世紀後半には実在していた可能性があるということですから、この地に沙庭が作られたのもその頃と思われます。
穴門豊浦宮(あなとのとようらのみや、とゆらのみや)の伝承地は、山口県下関市長府(ちょうふ)宮の内1ー18に鎮座する忌宮(いみのみや)神社です。式内社で旧国幣小社、長門国二宮。祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇で、この三神は伊佐爾波神社の祭神でもあります。仲哀天皇と神功皇后は船で瀬戸内海を渡ってきたということになります。