式内社伊和都比売神社の論社ー伊弉冊神社と赤穂の伊和都比売神社

 延喜式神名帳に登載されている播磨国明石郡の「伊和都比売神社」の論社のうちの稲爪神社と岩屋神社を紹介しました。次に伊弉冊神社を紹介します。
 伊弉冊(いざなみ)神社はその名前にあるように伊弉冊命を祀る神社です。鎮座地は明石市岬町(みさきちょう)19ー8。岩屋神社から西へ15分くらいの場所にあります。兵庫県神社庁のサイトによると、伊弉冊神社 通称名 佐奈岐神社 山陽電鉄「西新町駅」より南南東へ800m 主祭神 伊弉册大神(いざなみのおおかみ、神社の名前は伊弉冊、祭神名は伊弉册となっています) 配祀神 素盞鳴大神 屋船豊受大神(やふねとようけのおおかみ) 猿田彦大神 福徳三宝荒神(火結大神、ほむすびのおおかみ) 由緒 延喜式神名帳に云う明石郡九座の一つ伊和都比売神社にて、人皇10代崇神天皇御宇6年勧請せられた式内社である。人皇49代光仁天皇御宇宝亀2年(771)、境内地四丁四方赦免地となる。別所氏三木城主たる時崇敬厚く、社領五千石を寄進し、祭典営繕に当たったと云われる。天正年間(1573~1591)減地となるも、東城に小祠を建て御旅所と名づく(元の祇園さん)西城にも小祠を建て(賀神社)旧境内東西の境界の遺跡とする。嘉吉年間(1411~1443)赤松氏の和阪ノ戦、天文年中(1552~1554)町野入道の放火、天文年間羽柴氏三木城攻め等のしばしばの兵火に罹り、社殿▪︎旧記をことごとく焼失する。松の巨木(名残の初代の三本松)の生い茂るサナギの森と云われた。明治12年(1879)、県社に列せられる。昭和20年(1945)、太平洋戦争の戦災にて社殿、社務所一切の建物を焼失。1962年(昭和37)社殿再建。当社は物を生産する神、特に女神の信仰篤く、古くより根強い信仰を集めている。とあります。
 現在明石には伊和都比売を名乗る神社はありません。伊和都比売を名乗る神社は赤穂市にあります。
 伊和都比売神社は赤穂市御崎(みさき)字三崎山1にあり、式内社で旧郷社。赤穂御崎温泉街にあり、海に向かって鎮座します。航海安全や縁結びの神様として信仰を集めています。祭神は伊和都比売大神。元々は豊受比売であるとも、また播磨国一宮である伊和坐大名持御魂神社(現在の伊和神社)の神(大穴牟遅神)の比売神とも言われます。古くから「御崎明神」とも言われています。延喜式神名帳には、赤穂郡3座とあり全て小社ですが、その筆頭に書かれている古社です。ウィキペディアによると、長らく海上の岩礁「八丁岩」にあった社を江戸時代の天和3年(1683)に浅野長直(あさのながなお)が現在地に移したとあります。浅野長直は赤穂藩初代藩主ですが1672年に亡くなっています。天和3年当時の藩主は忠臣蔵で知られる3代目藩主の長矩(ながのり)です。いずれにしても江戸時代の初期に現在地に遷座したようです。
 明治時代には東郷平八郎が日露戦争開戦前に勝利祈願のために訪れたことから、帝国海軍関係者の信仰を集め戦前まで連合艦隊司令長官が艦隊を率いて海上より参拝を行いました。現在でも航海安全や大漁の祈願など、船乗りらによる海上からの参拝が盛んに行われています。  
 伊和を社名とするのは播磨国一宮の伊和神社で、宍粟市(しそうし)一宮町須行名(すぎょうめ)407に鎮座します。祭神は大己貴神。ウィキペディアによると、「伊和」の語源は『播磨国風土記』では神酒(みわ)、或いは大己貴神が国作りを終えて「於和(おわ)」と呟いたためとされます。
 延喜式の赤穂郡伊和都比売神社の論社はこの神社と明石郡(明石市)の稲爪神社だけです。稲爪神社には伊和都比売命が祀られており、由緒書にもあるようにかつては稲爪神社と伊和都比売神社が同じ境内にあったのではないかと思います。

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