熊野三党と熊野の反乱鎮圧
熊野三党とは、ウィキペディアでは榎本氏•宇井氏•穂積氏(藤白鈴木氏)の三氏で、速玉大社の神職を世襲し、八咫烏の神紋を用いた。藤白鈴木氏は穂積臣、榎本氏は榎本連、宇井氏は丸子(まるこ、まりこ)連を本姓とするが、三氏全てか穂積氏の出とする説もある。とあります。三氏全てが穂積氏の出とする伝承は千翁命に由来し前章に書いています。
このブログでは他に、『大行事と呼ばれた阿須賀神社』にも、漢司符将軍を父に、三狐神を母とするという伝承を紹介しています。
『熊野権現縁起』によると、三党の祖は高倉下として、第五代孝昭天皇のとき、熊野神に対して長男は十二本の榎を奉り榎本の姓を、次男は丸い小餅を捧げ丸子(宇井)の姓を、三男は稲穂を奉納して穂積(鈴木)の姓を賜ったと記しています。
『熊野年代記』には、平安時代初期嵯峨天皇の弘仁元庚寅(810)三月、宇井榎本鈴木熊野悪鬼多討。との記事があり、これは南蛮の乱と呼ばれ、熊野の山党が現在の新宮市に高丸城を築いたが熊野三党連合軍に滅ぼされたとあります。
また『寛政重修諸家譜』には、桓武天皇の時代に鈴木貞勝らが、孔子、高丸、休意という夷狄(いてき)を討伐したという記事があります。
『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』は寛政年間(1789ー1801)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集で、1530巻からなり、文化9年(1812)に完成しています。
熊野三党が反乱を討伐したという話ですが、『熊野山略記』には「桓武天皇の頃に熊野山が蜂起し、併せて南蛮の乱が起き、熊野三党に討伐せよとの勅命が下った」とあります。さらに「嵯峨天皇の弘仁2年に熊野三党は大将の愛須礼意(あいすれいい)と孔子を討ち取りましたが、悪事高丸は東国に逃げたので、この高丸を坂上田村丸が討伐した」と記されています。この時に反乱側が築き三党に滅ぼされた高丸城は新宮から那智勝浦へのバイパスの延伸工事現場の近くの北側の山上に石垣と祠があり、石垣には黒い石の板が埋め込まれ、それには高丸城趾として、「嵯峨天皇の弘仁2年1月に熊野山党がこの地に高丸城を築き、榎本、宇井、鈴木三党の連合軍と戦い敗れる。南蛮の乱という。」と書かれています。また『熊野年代記』には「延暦二三(804)甲申四月、田村麿将軍熊野に入り鬼を伏す」ともあります。坂上田村麻呂が熊野に来たという史実はありませんが、田村麻呂が熊野で鬼を退治したという伝承はネットで調べると詳しく紹介されています。
嵯峨天皇の時の反乱を鎮圧した人物として、熊野三党の他に楠富彦という人物の存在が伝えられています。楠正成の先祖になります。意外なところで楠正成の名前が出てきます。伝承によると、楠富彦はクマノクスビの末裔であり、勅命を得て乱を平定し、貞観18年(876)に清和天皇が熊野に行幸され、都に帰られる時に供奉し、そのまま都に留まって熊野には帰らなかったのですが、富彦の6世の孫が正定で、正定は熊野に帰り、伝徐福の旧跡と言われた楠藪という所に住んだので、周囲の人から楠殿と呼ばれました。正定の娘は都の橘好古(893ー972?)に嫁ぎ、その6世の孫が橘盛仲。盛仲の子が正遠で、この頃、橘氏の勢力が振るわなかったので、母方の楠を名乗りました。当時楠氏は熊野三山の神官で勢力もありました。正遠の子が正成になります。そういう記事がネットに出ています。さてこの中で清和天皇が熊野に行幸したとあります。定説では上皇の熊野御幸はありますが、天皇の行幸はないとされています。清和天皇の行幸は『熊野年鑑』に「貞観十八年丙申7月行幸熊野六口僧供奉」とあります。『熊野年鑑』は濱井八助が著した編年体の熊野の歴史書で、神武天皇から明治8年(1875)までの記録。原本は不明ですが、速玉大社には嘉永3年(1850)までの写本があり、昭和52年(1977)に大社から『速玉本熊野年鑑』として刊行されました。