度会郡大紀町錦ー本居宣長が主張した荒坂津(2)

大紀町錦という地区は古墳が複数存在し、縄文や弥生時代の土器、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)や海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)など銅鏡が出土するなど古代から開けた土地であることがわかっています。また、古代から近現代まで海産物を奈良県の宇陀地方へ出荷した魚(いよ)の道が存在し、平城京出土の木簡に「二色(にしき=錦ノ郷)」と記された荷札が出ているそうです。
平安時代末期の歌人西行法師(1118~1190)が熊野三山から船で伊勢の二見浦に行く途中に錦浦を通り、あまりの美しさに感動して詠んだ歌が『山家集(さんかしゅう)』に載っています。「海に敷く紅葉の色を洗ふゆえに 錦の島と言ふにやあるらん」。西行は海に映る紅葉が鮮やかなのでここを錦というのだろうと言っていますが、実は錦はニシキトベに由来する名前だと言われます。
錦浦を見下ろす高台に「神武台(じんぶだい)」があります。「神武台展望所」と書かれた看板があり、急な階段や尾根道を10分くらい登った場所に「神武天皇上陸記念地」とあり、石碑があります。それには次のように書いてあります。
伊波礼彦尊(いわれひこのみこと)が西暦239年、九州の美々津浦を船出し大和制圧のため、日向の国を出発された。途中長髓彦の強力な抵抗に遭い、陸路からの進軍をあきらめ船より進軍した。紀伊半島に迂回し熊野灘を北上、遂に大和入りに成功して橿原で即位された。この大和入りの上陸地点とされる学説には、錦浦とするもの、二木島とするもの、那智勝浦とする説などがある。古代の遺跡や遺物を実査した二人の著名な考古学者と歴史学者が「錦浦は太古より開けて高度な文化を誇った豪族大家の住ませし所」と論証している。この錦浦は大和の宇陀地方とは最短距離にあり、遺跡や遺物が示すように、恐らく古代の熊野灘沿岸には、錦浦の他にこれといった集落もなく、錦浦だけが海に開けた唯一の水陸交通の拠点であったと推定されている。このことから、神武天皇が上陸したとされる地点は唯一錦であろうと推定される。昔から地元では、神武天皇がお座りになったという石があると言い伝えられている。平成16年(2004)紀勢町。
いかがですか。なかなか凄い内容です。何よりも、この錦が神武の唯一の上陸地点だと言っています。なかなかの自信です。その根拠として古くから開けたことを物語る遺跡や遺物があることを挙げています。間接的な物証があるということです。さらに驚くべきは、神武が九州を出発したのは西暦239年と断言しています。私も神武は3世紀の人だと思いますが
、ここまではっきり言えるのはどういう根拠に基づくのか知りたいです。さらに二人の学者の説を引用していますが、それが誰か明らかではありません。表現からみて戦前の人のように思われます。なかなか興味深い内容です。 
文中に神武の出港地として、美々津(みみつ)の名前がありますが、美美津は宮崎県日向市にあり、地元では神武の出港地の伝承がありますが、記紀にはそれを裏付ける特定の場所の記述はありません。
錦浦には「ぎっちょ場」と呼ばれる場所があり、「神武祭」という儀礼が行われ、これはニシキトベとの密約を祭りの形で現代まで伝えている原始的な行事だと書いているネットの記事があります。
なんだか興味をそそられます。
また錦にはニシキトベの謎を解明しようと活動している戸畔の会などの地域おこしのグループがあります。ここでは神武やニシキトベが身近な存在になっています。
熊野市の二木島と大紀町の錦は、私が神武が船出したと考える新宮の佐野からは北になります。反対の南側にも神武の上陸地とニシキトベの足跡があります。


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