敏達天皇は母親の墓に埋葬された
和田萃氏の論文『殯の基礎的考察』によると、敏達天皇の殯の期間は5年8ヶ月に及んだとあります。現在の私達からするととてつもなく長い期間に感じます。亡くなった天皇に対する追慕であるとしても。敏達天皇が亡くなったのは8月です。暑い盛りです。おそらく石棺に納めたと思いますが、それでも死臭は防ぐことができません。またイザナギの黄泉の国訪問にもあるように遺体は腐敗していきます。5年以上も経過していると白骨になっているでしょう。天皇で最初に火葬にされたのは持統天皇ですから、それまでは土葬されていたことになります。明治になって天皇の土葬が復活しましたが、平成の天皇(現在の上皇)も現上皇后も火葬を希望されているそうです。
さて、敏達天皇の長い殯の期間には皇位を巡る争いがあり、排仏派の物部守屋が滅ぼされるなど古代史上重要な事件が起きていますが、それはあらためて書くことにします。
敏達天皇の母は石姫皇女(いしひめのひめみこ)。皇女とありますから天皇の娘です。その天皇は第28代宣化天皇。宣化天皇は継体天皇の第二皇子。石姫の母は第24代仁賢天皇の皇女の橘仲皇女(たちばなのなかつひめのみこと、生没年不詳。古事記では橘之中比売命)。橘仲皇女の母は春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ、生没年不詳、第21代雄略天皇の女)。仁賢天皇の子供としては、仁徳天皇の皇統の最後の天皇とされる第25代武烈天皇、継体天皇の皇后となり欽明天皇を生んだ手白香皇女、そして橘仲皇女がいます。また、後で書きますが穴穂部皇子と共に殺害された宅部皇子も宣化天皇の息子だとされています。欽明天皇は石姫皇女だけでなく、蘇我稲目の娘の堅塩媛と小姉君を娶っています。そして敏達天皇の後に即位した、用明、崇峻、推古の母は、稲目の娘であり、稲目の子供である馬子にとっては甥や姪になりますし、これら三人の天皇は臣下の娘を母としていることになります。敏達天皇は自分の墓を造られなくて、皇女である母の墓に追葬されたこととは関連があるのかもしれません。
敏達天皇の御陵は大阪府南河内郡太子町(たいしちょう)太子にあります。宮内庁では「河内磯長中尾陵(こうちのしながのなかのおのみささぎ)」あるいは「磯長原陵(しながのはらのみささぎ)」として治定されています。欽明天皇の石姫皇后(敏達天皇の母)との合葬陵です。遺跡名は「太子西山(たいしにしやま)古墳、奥城古墳〈おくつきこふん〉」。宮内庁が管理していますから発掘調査は行われていません。そのため内部の様子は不明ですが、横穴式石室であろうと推測されます。全長約93mの前方後円墳で、周囲に空濠をめぐらしています。古墳時代後期前半の築造と考えられ、敏達天皇は崇峻天皇4年にここに埋葬されました。石姫皇后がいつ崩御したかは不明ですが、敏達天皇が埋葬された時点で墓が存在していたことになります。この墓は前方後円墳ですが、天皇陵としての前方後円墳はこれが最後であり、また埴輪列のある墓としても最後になります。そういう意味では敏達天皇の陵墓は一つの時代の終わりを象徴しているとも言えます。用明天皇以後は国の施策として仏教の振興が図られますが、敏達天皇の時代はまだ排仏派も力を持っており、そういうことも敏達天皇の陵墓のあり方に影響しているのかもしれません。
敏達天皇の御陵へのアクセスですが、近鉄の大阪阿部野橋駅から長野行き電車で喜志(きし)駅へ。近鉄バス喜志循環線葉室廻りで、敏達天皇陵前下車。