度会郡大紀町錦ー本居宣長が主張した荒坂津(1)

錦浦は本居宣長が『古事記伝』で神武の最終上陸地だという説を唱えています。それによると神武の軍団は錦浦から上陸し、ひと山越えて大杉谷もしくは高見山の山道を経て吉野•宇陀に至ったと推察しています。熊野から宇陀は北上になりますが、ここからだと西に進軍したことになります。血はつながっていませんが、孫に当たる内遠が楯ヶ崎を上陸地としていることは既に紹介しています。身内で見解が異なるというのは面白いです。
現在は度会(わたらい)郡大紀(たいき)町錦ですが、この場所の変遷はかなり複雑です。私は錦が度会郡の町であることから、元は伊勢国に属していて、紀伊国ではないのに、どうしてここが熊野の神武上陸の候補地になっているのか不思議でした。新宮からもずいぶん離れています。錦は大紀町になる前は度会郡紀勢町でした。紀勢町は昭和32年(1957)に山側の度会郡柏崎村(伊勢国)と熊野灘に面した北牟婁郡錦町(紀伊国)が合併して誕生しました。町の名前はそれぞれが属していた旧国名から付けられました。錦が紀伊国に属していたわけは、天正10年(1582)に新宮城主堀内氏善(ほりうちうじよし 熊野水軍の将、熊野別当としての宗教的な権威と経済力を持っていた)と伊勢国司北畠信雄(きたばたけのぶかつ 織田信雄。信長の次男。当時北畠氏の養嗣子となっていた。後に神武の到着地の宇陀松山藩初代藩主になる)とが荷坂峠を境として紀伊国牟婁郡と伊勢国度会郡にしたことで氏善が紀伊国に編入したことによるものです。その前は志摩国英虞(あご)郡に属していました。志摩国は志摩半島にある鳥羽市と志摩市で構成されていたわりと狭い地域だと思ったおりましたが、志摩国が成立した当時は尾鷲市域までの広さがありました。その境となったのが二木島湾で、湾の東の岬が英虞崎で志摩国英虞郡、西の岬が牟婁崎で紀伊国牟婁郡。これは「水死した二人の兄を祀る神社」に
書いています。伊勢国から紀伊国への入り口については、荷坂峠(にさかとうげ)とツヅラト峠があり、どちらもその一部が世界遺産の熊野古道伊勢路になっています。古くはツヅラト峠が紀伊国の入り口となっていましたが、あまりにも急なことから徳川頼宣が藩主として入国してから、荷坂峠が整備されました。勾配がゆるく道幅も広くて重い荷物を担いでも越えることができることから付いた名前。
度会郡大紀町は大宮町と大内山村そして紀勢町が平成17年(2005)に合併して誕生しました。町の名前は「大」と「紀」から。なお大宮町は伊勢神宮の別宮「瀧原宮」と「瀧原竝宮」があるところから町の名が付けられました。この両宮は「紀伊続風土記にみる阿須賀神社(2)ーミケツカミがルーツ」に書いています。
神武上陸地の話に入る前に、錦の氏神である「錦神社」について書いておきます。錦151に鎮座。三重県神社庁によると、祭神は武速須佐之男命、天之忍穂耳命、天津彦根命(アマツヒコネ)。勧請年月日不詳。安政元年(1854)11月4日の津浪によってことごとく流失したため、翌年に京都より勧請。明治41年(1908)に村内にあった稲荷神社、戎神社、浅間神社などを合祀したとあります。漁業が盛んなところから大漁祈願で信仰されているとのことです。神武は祀られていませんが、祖先のオシオミミとアマツヒコネが祀られています。オシオミミは熊野権現の五所王子の禅児(師)宮に祀られており、神武の直系の先祖。アマツヒコネは、アマテラスとスサノオの誓約で、アマテラスの玉から生まれた五男神の一柱。五男神は、他にアメノオシオミミ、アメノホヒ、イクツヒコネ、クマノクスビで、この五男神はアマテラスの玉から生まれたのでアマテラスの子とされます。またこの神社には「御子の宮」と鳥居に扁額のある境内社があるそうです。


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