穴穂部皇子の最期その2

 的真噛(いくはのまくい)は難読氏名です。一度聞いたら忘れられないかもしれません。的氏(いくはうじ)の姓は臣。的氏は『古事記』によると、武内宿禰の子の葛城長江曾都毘古(かつらぎのながえのそつひこ、葛城襲津彦)を始祖とする武内宿禰の後裔氏族の一つです。その本拠地は不明ですが、史料上から河内▪︎和泉▪︎山城▪︎近江▪︎播磨に分布していることが確認できます。これらの分布のうち的氏が対朝鮮外交に関係していたことから、河内、和泉を地盤とした氏族と考えられます。「的」という氏族の名前については、その起源について『日本書紀』に記事があります。仁徳天皇12年に高麗の客が鉄製の盾と的を献上し、天皇が饗応の場で百官にその盾と的を射るように命じましたが、誰も射通すことができませんでした。そのなかで、的臣の祖の盾人宿禰だけが鉄製の的を射通し、高麗の客はその技を恐れて天皇に拝礼しました。盾人宿禰はその功績を讃えられ、的戸田宿禰の名前を賜ったとあります。この伝承が生まれた背景として、的臣が軍事を職掌として、特に対朝鮮外交において活躍していたということがあります。ただ、的氏は的真噛以後は史料には登場しなくなり、歴史の表舞台から消えていきます。  
 衛士(えじ、えいし)は、律令制下で主に諸国で軍団が置かれていた時期に宮中の護衛のために諸国の軍団から交代で上洛した兵士。  
 用明(ようめい)天皇は、欽明天皇の第四皇子。母は蘇我稲目の娘の堅塩媛。第31代天皇。聖徳太子は第二皇子になります。用明天皇は在位2年足らずで亡くなっています。そういうとこから存在感の薄い天皇ですが亡くなる前に仏教に帰依するとの詔を出しており、天皇として公式に仏教を認めたことから、その後の国を挙げての仏教振興の先鞭をつけたと言えます。用明天皇の病気は、ウィキペディアでは天然痘となっています。
 用明天皇の皇居の「磐余池辺﨎槻宮(いわれのいけのへのなみつきのみや)」は、その名前にあるように磐余池のそばにあったとされます。磐余池は『日本書紀』によると履中天皇2年11月に築造されたとあり、この池は平安時代までは存在していましたが、その後埋め立てられて耕作地になっています。桜井市池之内から橿原市池尻の地にあったと推測されます。平成23年(2011)に天香久山から北東に数百メートルの橿原市東池尻町221で古代の堤跡とその堤上で大型の建物跡が発見されました。その建物は東西4m、南北17.5m以上あり、その他の建物も見つかっています。これが用明天皇の皇居跡ではないかといわれています。磐余は5世紀から6世紀にかけてのヤマト王権の政治的な要地であり、在位年数は短かったですが、用明天皇はそういう重要な場所に皇居を造ったということになります。
 用明天皇は亡くなった後、『日本書紀』によれば7月21日に「磐余池上陵(いわれのいけのへのみささぎ)」に葬られ、推古天皇元年(593)9月に「河内磯長陵」に改葬されます。それが南河内郡太子町春日にある「河内磯長原陵(こうちのしながはらのみささぎ)」です。遺跡名は「春日向山古墳(かすがむかいやまこふん)」。一辺60mの方墳。太子町のホームページによると墳丘規模や形は蘇我馬子の墓といわれる石舞台古墳と似ているとあります。用明天皇の御陵へは、敏達天皇陵と同じく近鉄長野線の「喜志」駅から近鉄バスの便があります。



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