賀茂競馬の1ーその由来
「競馬(きそいうま、くらべうま)」は天下泰平•五穀豊穣を祈願して宮中の武徳殿で行われていたのを、堀河天皇によって寛治七年(1093)5月5日に上賀茂神社に移されました。上賀茂神社と石清水八幡宮が候補地となり、どちらにするかを「菖蒲の根合わせ」で決することになり、左方(さかた)と右方(うかた)に分かれ、それぞれの勝利を左方は上賀茂神社に、右方は石清水八幡宮に祈願しました。その結果上賀茂神社に祈願した左方が勝利を得ましたので、上賀茂神社で競馬が行われることになりました。
上賀茂神社で競馬を行うための費用を捻出するために、国々の中から二十ヵ所の荘園が与えられ、各荘園から一頭づつ寄進された馬ニ十頭で、十番の勝負が行われました。
競馬の会場が上賀茂神社に移された後もなお奉仕したのは宮中の殿上人や左右近衛府の官人でした。それが上賀茂神社の氏人に託されるようになったのは鎌倉時代になってからです。ただ乗り方や式や作法は継承されました。競馬のあと、勝利した方の乗尻(のりじり)は舞楽の「蘭陵王(らんりょうおう)」と「納蘇利(なそり)」を奉納したと鎌倉時代後期の記録に残されています。現在でも乗尻は各々「打毬楽(だぎゅうらく)」や「狛桙(こまぼこ)」という舞楽衣装を身に付け馬に乗ります。勝者が舞うことはありませんが、彼らは同じ装束を着て、葵祭の行列を京都御所から先導します。
「蘭陵王」は中国北斉(ほくせい)の蘭陵武王•高長恭(こうちょうきょう)の逸話にちなんだ曲目です。眉目秀麗な名将であった蘭陵王が、その優しげな美貌を隠すために獰猛な仮面をかぶり、戦いに臨み見事大勝したことを喜んだ兵士たちがその勇姿を歌に歌ったのが曲の由来です。武人の舞らしい勇壮さの中に絶世の美貌で知られた蘭陵王を偲ばせる優雅さを併せ持つのが特徴です。蘭陵王こと、高長恭は、541~573年の在世。高長恭は、最初に徐州の蘭陵に封じられたことから蘭陵王と呼ばれます。蘭陵は現在の山東省臨沂(りんぎ、リンイー)市に位置します。臨沂の市名は沂水(ぎすい)という川の名前に由来します。臨沂市は山東省では面積や人口で最大の都市です。北斉は、正式な国名は斉ですが、春秋戦国時代の斉や、南朝の斉と区別するために北斉や、高氏によって建国されたことから高斉とも呼ばれます。存在したのは550年から577年の間です。北周によって滅ぼされます。
「納蘇利」は「納曽利」とも書きます。曲の由来は不明です。右方舞として左方舞の蘭陵王とともに勝負舞として舞われました。ニ匹の龍が遊び戯れる様子を表したものと言われます。平安時代には、競馬や、賭弓(勝者に賭物が与えられます)、相撲の節会(せちえ)で舞われ、左方が勝つと「蘭陵王」が、右方が勝つと「納曽利」が舞われたとされています。
「打毬楽(打球楽)」は、4人で舞われる左方舞。胡国馬上の曲と言われています。五月の節会において馬上から毬杖(ぎっちょう)で毬(まり)を打つ遊びの際に奏され、また競馬•相撲•闘鶏の際に奏されました。毬杖は、木製の槌をつけた木製の杖を振るって木製の毬を相手の陣に打ち込む遊びのことで、それに使用するスティックのことをも言います。この杖には五色の糸がつけられています。
「狛桙」は「狛鉾」とも書きます。勇壮で迫力のある舞姿が特徴の右方の平舞(ひらまい)。高麗からの使節が日本の港に入ってきたとき、五色に彩った棹(さお)で船を巧みに操る様子を舞にしたと言われています。4人の舞人が五色にいろどられた棹を持って舞います。