斉明天皇が祭祀を行ったとされる亀形石造物
酒船石のある丘の下から20世紀の終わりの2000年(平成12)に亀形の石造物をはじめとした祭祀遺跡が発掘されました。明日香村教育委員会はこの新しく発見された遺跡と従来から存在が知られていた酒船石を合わせて「酒船石遺跡群」と命名しました。
亀形石造物(かめがたせきぞうぶつ)は斉明天皇の時代に造られたとされ、高さ2.3
メートル、幅約2メートルの亀の姿をしています。そのユニークな姿から発見当時大きな話題になりました。亀形の石造物は南を向いており、両目は丸く彫られ、4本の指も表現されています。亀の甲羅は円形で、深さ約20cmの水槽が彫り込まれており水が溜まるようになっています。丸い目を持つ頭が取水口となり、鼻から甲羅に水が入り、甲羅に溜まった水が溝の刻まれた尻尾から流れ出るようになっています。その水は船の形をした貯水槽から供給され、さらにこの貯水槽へは南側にあるレンガ状に加工された砂岩の切石を積み上げた湧水施設から水が送られるということになっています。湧水施設から取り入れられた水は貯水槽へと導かれ、貯水槽から亀の甲羅に彫られた水槽に溜められ、そして亀の尻尾から排水されるという仕掛けになっています。そうしたことから亀の甲羅の水槽で水を使った何らかの祭祀が行われていたであろうと考えられています。この祭祀において水が重要な役割を果たしていたということになります。この遺跡が発見されたとき、テレビでその様子が何度も放送されましたが、それによるとこの施設の三方は石垣で囲まれており、また施設の地面も石敷であったと記憶しています。石によって結界された空間ということになります。この石が天理砂岩と呼ばれる石だとすると、この石は天理市の豊田山から運ばれたと考えられ、この石を運ぶために「狂心渠」と非難された水路を造らせたのではないかと考えられます。そしてこの水路を造らせた斉明天皇がこの場所で何らかの儀式を行ったと考えられます。私は狂心渠と亀形石造物とは密接な関係があったと考えます。さらに、斉明天皇以前には酒船石で水を使った重要な国家祭祀が行われており、斉明天皇はそれを継承し発展させたと考えています。この亀形石造物の付近からは7世紀中頃から10世紀の間にかけて利用されたことが確認されている土器が出土していることから、その期間はこの場所で何らかの祭祀が継続して行われていたということになります。7世紀中頃は斉明天皇の時代であり、10世紀は延喜式が編纂された時代になります。この間には宮都が藤原京を含む飛鳥から平城京、そして平安京へと遷り、飛鳥は国の中心ではなくなります。それでも亀形石造物では祭祀が行われていたということは、この場所が聖地とみなされていたことになります。その祭祀を引き継いだのが飛鳥山口坐神社と石村山口神社であり、ともに祈雨神としての祭祀が行われ、延喜式が編纂されるまでに石村山口神社はこの場所から磐余に遷されたと思われます。そして石村山口神社が水につながる祭祀を行っていたという伝承から水分神社と呼ばれたと考えます。
亀形石造物へのアクセスは、近鉄の橿原神宮前駅東口、または飛鳥駅から奈良交通明日香周遊バスで「万葉文化館西口」下車すぐです。