向日明神の伝承その3ー石井神社と三の滝
金蔵寺の護摩堂の北に湧水の「石井(いわい)」があります。別名を「雲生水(うんじょうすい)」とも言い、金蔵寺では唯一の井泉です。かつてここには石井(いわい)神社があり、この清水を御神体として祀っていました。また金蔵寺自体がこの神社の神宮寺であったと言われており、それだけ重要な存在であったということになります。
石井神社は式内社で、1953年(昭和28)に山麓の山王社に遷され合祀されました。現在は金蔵寺の境内の石垣の上に社殿跡が残っています。この「石井」が向日神社の境内社の増井神社の井戸とつながっているといわれ、かつて石井の水を汲み替えると数日後に増井の水が濁ったと言われています。
石井神社は延喜式神名帳の山城国乙訓郡の石井神社(小社)に比定されています。住所は西京区大原野石作町586。旧乙訓郡坂本村。祭神は磐裂大神(いわさくのおおかみ)で、水の神、泉の神。金蔵寺の御香泉という湧水の側に祀られていました。旧村社。神社本庁の「全国神社祭礼総合調査」によると、「式内社である。三代実録に元慶4年従五位下授けたとある。山城志にも記されている。清水を神格化した古社なり。雲生水とも云ひ、清冽な涌水のある金蔵寺護摩堂の北清泉の上に祀られていたが、氏子の人々が近くに祀りたいと云ふので現在地に鎮座す。」とあります。遷座したのは昭和28年で、この場所には、山王社が祀られていました。石井神社の場所はかなり分かりにくく、神社も荒れているそうです。石作町の坂本集落の奥の岩倉川に架かる橋を渡り、藪の中に入った場所にあり、覆屋の中に本殿だけがあるそうです。
元慶(がんぎょう、げんけい)4年は西暦880年で、陽成天皇の治世。
金蔵寺の参道手前の山道の傍らに三の滝(産滝、産ノ滝、岩倉ノ滝)があります。高さ12m。三段の滝です。この滝にまつわる伝説です。第42代文武天皇の第3皇女は8歳の時に病気になり、諸国巡礼の後、この滝の傍らに庵を結びました。ある晩の夢に少年が現れ、鏡を渡して皇女の懐中に納めました。やがて皇女は懐妊して男の子が生まれました。その子は「中松(なかまつ、幼名は楠松丸)」と呼ばれました。皇女はこの子を育てることができず、山中に捨てられました。この子供が向日明神だということです。
文武天皇(683~707、在位697~707)は、父が天武天皇と持統天皇の息子の草壁皇子で母は持統天皇の妹の元明天皇、姉が元正天皇です。元正天皇の養老2年に向日神社が現在地に遷りましたし、金蔵寺は元正天皇の勅願で創建されています。元正天皇とは縁があります。三の滝の話で、文武天皇の第3皇女が登場します。文武天皇には皇后はいなくて、藤原不比等の娘の宮子が夫人という地位で後の聖武天皇を生んでいます。また嬪という地位に二人の女性がおり、そのうちの石川刀子娘が高円広世(たかまどのひろよ)を生んでいると言われますが、これには異説があります。もう一人は紀竈門娘で、この人が子供を生んだという記録はありません。また母の名前は不明ですが、元正天皇の時代に伊勢斎宮だった久勢(くせ)女王が文武天皇の皇女だという伝えがあります。文武天皇の時代は藤原不比等が朝廷内で勢力を伸ばしてきた時期にあたり、娘の宮子を文武天皇に嫁がせ、さらにもう一人の娘の光明子を後の聖武天皇に嫁がせますから、藤原氏にとって邪魔になる存在は排除した可能性があります。したがって、第3皇女はいなかったとは断言できません。
また、三の滝の下流にある「烏帽子岩」には長岡京遷都に際してこの場所に拝殿を建て向日明神を祀ったと言われています。三の滝を御神体としたということです。いわゆる磐座祭祀です。