紀伊続風土記にみる阿須賀神社(2)ーミケツカミがルーツ

『紀伊続風土記』は事代主の記述の後に並宮について書いています。神社の由緒書によると、「三光社。熊野三宅津神(くまのみけつかみ)と尊敬され又夫須美神の荒御魂、熊野党の母神といわれるなど、創祀は並宮として更に古代にさかのぼるものと思われます」とあります。三光社と並宮と二つ。同じ神社のことですが、この意味するところをみてみます。
『続風土記』では、『三光、即ち日月星を祀ると言われているがそれは誤りで三狐神のことで、「さんこう」、「さんこ」と発音が似ているので誤解されたもの。三狐神は、宇賀能美多麻(ウカノミタマ)の神であり、保食神(ウケモチノカミ)のこと。即ち三狐は三饌津神(ミケツノカミ)であるとしています。由緒書の「熊野三宅津神」と対応します。「ケツ」は本宮の祭神「家津美御子大神」の「ケツ」です。本宮の祭神も食物神の性格を持つということになります。最近はあまり耳にしませんが、関西では「キツネ」を「ケツネ」と発音しました。狐が稲荷神の使いとされる理由かもしれません。
三光社が速玉大社の重要な神事に関わっているということが続いて書いています。毎年十一月十五日の深夜子刻に大社の速玉の神を祀る中御前で神事をした後、大社から外に出て二手に分かれ、一方はまっすぐに阿須賀神社へ向かい、もう一方は御舟島で神事をして、諸手船で阿須賀神社の後ろの岸から上陸します。その前に鍋割島で祭に使用した器を壊すとあります。古代の祭祀では神に捧げた器は破壊しましたから、その名残でしょう。そして阿須賀神社で田植え式を行っています。『続風土記』にも書いていますが、この神事は飛鳥の神ではなく保食神(=稲荷神)に捧げられたものです。
三光社は、古くは並宮と呼ばれていたとあります。並宮に関してです。『続風土記』に引用されている『倭姫命世記』は、倭姫命がアマテラスを祀るにふさわしい場所を探して遍歴することが書かれていますが、姫が一時的にアマテラスを祀った場所を「元伊勢」と言います。その中に「瀧原宮」と「瀧原竝宮」があります。どちらも内宮の別宮で、元伊勢で別宮なのはここだけです。内宮にとって重要な存在であることが分かります。神社に参拝しますと、二つの社殿が並んでいます。向かって左、手前になりますが「瀧原竝宮」でアマテラスの荒御魂を祀り、右の「瀧原宮」には和御魂を祀ります。阿須賀神社もこのように二つの社殿が並立していたということになります。
石淵の谷に初めて熊野の神を二宇で祀ったというのが連想されます。由緒書に、夫須美神の荒御魂を祀るというのにもつながっています。そして由緒書によると、この並宮が阿須賀神社より古いとあります。ここからは弥生時代の住居跡が発見されていますから、弥生時代の人が蓬莱山の神(=ミケツカミ)に豊作を祈願し、その神のことば(言、あるいは事)を解する男(事解男)という関係が読み取れます。それが記紀神話に取り入れられたことから、事解男が「表に出ない神」とされ、事解男を祀る阿須賀神社が重要視された理由だと言えます。
三光社の祭神が「熊野党」の母神だという伝承については、「阿須賀大行事」で説明します。
三光社の縁起を読むと、阿須賀神社のルーツが、食物神であるという印象を強く持ちました。

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