乙訓坐大雷神社の論社ー向日神社に合祀された火雷神社の4
『延喜式神名帳』にある向神社の祭神は、現在の向日神社では向日神となっています。向日神とはどういう神様でしょうか。向日神は大年(歳)神(おおとしのかみ)の子の御歳神(みとしのかみ、おとしのかみ)のことです。この神が長岡丘陵に登られた時にここを向日山と名付け、この地に長く留まって稲作を奨励されたことで向日神として祀られたということになります。
『古事記』によると、大年神は須佐之男命と神大市比売(カムオオイチヒメ、大山津見神の娘)との間に生まれた神。両神の間の子には他に宇迦之御魂命(稲荷神)がおり、大年神と稲荷神は兄弟になります。大年神と香用比売(カガヨヒメ、カグヨヒメ、カヨヒメ)との間に生まれたのが御歳神(向日神)。年神は毎年正月にやって来る来訪神。門松は年神が来訪するための依り代であり、鏡餅は年神への供え物でした。また「年」は稲の実りのことで、「稔(みのり)」と書いて「とし」と読みます。年神は穀物神でもあります。古代日本で農耕が発達するにつれて年の始めにその年の豊作を祈念するようになり、年神を祀る行事になりました。暦には女神の姿をした歳徳神が描かれていますが、神話に出てくる年神は男神であり、翁の姿をしていると言われています。
『古語拾遺』には、御歳神について次のような説話が載っています。「大地主神(オオトコヌシノカミ)の田の苗が御年神の祟りで枯れそうになったので、大地主神が白馬•白猪などを供えて御年神を祀ると苗は再び茂った」。
奈良県御所市東持田(ひがしもった)269にある葛木御歳(かつらぎみとし、かつらぎみとせ)神社は式内大社で、祭神として御歳神を祀り、全国にある御歳神社、大歳神社の総本社。高鴨神社(上鴨社)、鴨都波神社(下鴨社)に対して「中鴨社」と言われます。
御年神の母の香用比売の名前は「光り輝くような美しい女神」という意味で、母は神魂命(カミムスヒノミコノト、神皇産霊尊)で、父はタカミムスヒ(高皇産霊尊)と考えられますが、少彦名命(スクナヒコナノミコト)とする説もあります。母が神魂命ということですから、建角身命とは母を同じくする関係にあります。向日神と建角身命は母方の親族関係(建角身命は御歳神の伯父または叔父になります)。
向日神社は阪急電車の京都本線「西向日」駅の北西500mにあります。245mの参道には、桜、ツツジ、楓が植えられて四季折々の花の名所になっています。
向日神社の本殿は室町時代の応永29年(1422)に7か村の協力で再建されたもので国の重要文化財に指定されています。この本殿は東京の明治神宮本殿のモデルになっています。境内には役行者も祀られており、神仏習合の名残を留めています。
境内社の「増井(ますい)神社」は火雷神の荒御魂を祀り、御神体は「増井」という井戸になっています。この井戸は金蔵寺の井戸とつながっていると言われており、それについては「向日明神の伝承その1-金蔵寺の縁起」で紹介します。井戸が火雷神の荒御魂の御神体ということですが、この場合の荒御魂は御蔭神社の祭神の荒御魂のような新しく生まれた神霊ではなく、活動的な神格ということです。乙訓の火雷神は祈雨神とされ水に縁がありますから、井戸が御神体というのも納得できます。
向日山(むこうやま、むかいやま、63.6m)は勝山とも言われ、弥生時代の高地性集落の「北山遺跡」があります。この山が勝山と呼ばれるのは豊臣秀吉が朝鮮出兵に際して神前を通り、神官に山の名前を尋ねたところ、神官は「勝山」と答えたので縁起が良いと喜び、それから勝山と呼ばれるようになったということです。 この話は『山州名跡志』に載っています。この資料は白慧(はくえ、坂内直頼の僧名)の編纂で、正徳元年(1711)の刊行。22巻。元禄年間に実地調査を行い、神社仏閣、名所旧跡の由来や縁起を記した山城国研究の基本書。