建波邇安王の反乱ー王の敗死の現代語訳

そこで大毘古は、さらに引き返して、天皇に申し上げてお指図を乞うと、天皇が答えて、「これは山城国にいるあなたの異母兄の建波邇安王(たけはにやすのみこ)が、反逆の野心を起こした瑞(しるし)に違いあるまい。伯父上よ、軍勢を整えてお出かけなさい」と仰せられて、丸邇臣(わにのおみ)の祖先の日子国夫玖(ひこくにぶく)命を副えて遣わされた。そのとき、日子国夫玖は丸邇坂(わにさか)に斎み清めた酒瓶(さかがめ)を据え神を祭り、下って行かれた。ところが山城の和訶羅河(わからがわ)にやって来たとき、かの建波邇安王は、軍勢を整えて待ちうけて行くてを遮り、それぞれ川を間に挟んで向かい立って、互いに戦(いくさ)をしかけた。それでその地を名づけて伊杼美(いどみ)という。今は伊豆美(いずみ)という。そこで日子国夫玖が相手に求めて、「まずそちらの人から合戦の合図の矢を放て」といった。そこで建波邇安王が矢を射たけれども命中しなかった。ところが国夫玖の放った矢は、建波邇安に命中して王は死んだので、その軍勢は総崩れとなって逃げ散った。そこでその逃げる軍勢を追いつめて久須婆(くすば)の渡りにやって来たとき、王の軍はみな攻め苦しめられて、屎(くそ)が出て袴(はかま)にかかった。それでその地を名づけて屎襌(くそばかま)という。今は久須婆という。またその逃げる軍勢の行くてを遮って斬りつけたので、死体が鵜(う)のように川に浮かんだ。それでその川を名づけて鵜河(うかわ)という。またその兵を斬り屠(はふ)ったので、その地を名づけて波布理曾能(はふりその)という。こうして大毘古は平定し終わって、都に上って天皇に復命した。ところで大毘古は、先の詔(みことのり)に従って越国の平定に下って行った。ところが東方に遣わされた建沼河別(たけぬなかわわけ)は、その父の大毘古と会津(あいづ)で行き会った。それでそこを会津というのである。こうしてそれぞれ遣わされた国を平定し服従させる任務を果たして、これを天皇に復命した。そして天下は平になり、国民は富み栄えることになった。そこで初めて天皇は、男の弓矢で得た獲物や、女の手で織った織物などの調の品を貢納させられた。それでその御世をたたえて、「初国知らしし御真木天皇(みまきのすめらみこと)」と申すのである。となっており、『古事記』の崇神天皇の段は、これに続いて依網池(よさみいけ)や軽(かる)の酒折池(さかおりのいけ)の土木工事を行い、168歳の戊寅の年12月に崩御されて、御陵は山辺道の勾の岡のほとりにある。となって終わっています。崇神天皇陵は行燈山(あんどんやま)古墳とも呼ばれ、宮内庁では御陵名を「山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)」としています。場所は奈良県天理市柳本町で国道169号線に面しています。JR桜井線(万葉まほろば線)の柳本駅から東へ約600メートル行くと169号線に出ますから、そこを右(南)に曲がるとすぐに拝所があります。柳本駅からは国道を渡った向かい側になります。御陵印は畝傍陵墓監区事務所に置かれています。


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