伊予湯岡碑の現代語訳の補足の1
前章に引用した現代語訳の著者の梅原猛(うめはらたけし、1925~2019)氏は、哲学者、評論家。京都大学文学部卒業。立命館大学文学部哲学科教授、京都市立芸術大学教授及び学長、国際日本文化研究センター初代所長などを歴任。文化勲章受章。「スーパー歌舞伎」「スーパー能」を創作。日本文化の本質を探求し、大胆で独創的な梅原日本学を確立しました。梅原氏には多くの著作があります。そのうちの『聖徳太子』は、1980年から1985年にかけて小学館から出版され、1993年に集英社文庫に収められました。
『伊予国風土記逸文』では、聖徳太子一行が訪れたのは法興6年とあります。法興は国家が定めた公式の年号ではなく私年号と言われるものです。聖徳太子の徳を慕う僧侶によって使われたと考えられ、法興寺(飛鳥寺)の建立開始年(西暦591年)を元年としますから、法興6年は596年になります。法興には仏法が興隆するという意味があります。法興元年は崇峻天皇4年で、崇峻天皇は翌年暗殺されます。年号としての法興の使用例としては、この伊予国風土記逸文と、法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘の法興31年があります。法興31年は621年です。
聖徳太子の同行者として名前があがっている恵慈と葛城臣については、章を別にして書きます。
聖徳太子一行が訪れた場所は伊予(原文では夷与)村となっていて道後温泉とはなっていません。前に書きましたが、道後の名前の起源は伊予の国府が今治市付近に置かれてからということですから、聖徳太子の時代にはまだ国府がありませんでしたから道後という名前はありません。この伊予の村の神の井(温泉)が道後温泉を意味するかどうかについても疑問点があると言えます。
「天寿国」は、原文では「于寿国」とあり、「于」は「天」の誤りではないかと考えられています。「天寿国」とは、「阿弥陀如来の住む西方極楽浄土」を指すものと考えられています。天寿国の名前を持つ物として中宮寺(ちゅうぐうじ、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北1ー1ー2)が所蔵する国宝の「天寿国繍張(てんじゅこくしゅうちょう)」が知られています。「天寿国曼陀羅繍張」とも呼ばれるこの作品は、その銘文によれば、聖徳太子の薨去を悼んで妃の橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)が作らせたとあります。橘大郎女(生没年不詳)は尾張皇子(おわりのみこ)の娘。尾張皇子は敏達天皇と推古天皇の皇子。従って橘大郎女は両天皇の孫になります。「天寿国繍張」とは「聖徳太子が往生した天寿国のありさまを刺繍で表した張(とばり)」という意味になります。聖徳太子が推古天皇30年(622)に薨去すると橘大郎女は推古天皇に願い出て、宮中の采女に刺繍させたといわれ、現存する日本最古の刺繍です。
聖徳太子は、この碑文で自らの政治信条について述べています。
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