穴穂部皇子は藤ノ木古墳の被葬者?の2ー宅部皇子の存在

 穴穂部皇子と宅部皇子の殺害については『日本書紀』崇峻天皇紀に書かれています。
(用明天皇崩御後の)五月、物部大連軍衆、三度警骸。大連、元欲去餘皇子等而立穴穂部皇子爲天皇。及至於今、望因遊猟而謀替立、密使人於穴穂部皇子曰「願與皇子將馳猟於淡路。」謀泄。六月甲辰朔庚戌、蘇我馬子宿禰等、奉炊屋姫尊、詔佐伯連丹經手▪︎土師連磐村▪︎的臣眞噛曰「汝等、嚴兵速往、誅殺穴穂部皇子與宅部皇子」是曰夜半▪︎佐伯連丹經手等、圍穴穂皇子宮。於是、衞士先登樓上、撃穴穂部皇子肩。皇子落於樓下走偏室、衞士等挙燭而誅。辛亥、誅宅部皇子宅部皇子、檜隈天皇之子、上女王之父也、未詳。善穴穂部皇子、故誅。となっており、日本書紀ではこの後に善信尼が馬子に百済に行きたいと願う場面になります。
 『日本書紀』の上記の文章はそれほど長くはありません。また表現が簡潔で、これを読んで清水守民氏の言う「穴穂部皇子と宅部皇子が愛人関係にあった」ということが理解できるかどうかがポイントになります。穴穂部皇子が守屋から淡路に来るように言われていますが、皇子はまだその誘いに従っていません。亡くなった用明天皇の皇居の近くに居ることで天皇になるチャンスをうかがっていたのでしょう。ただ皇子の存在は馬子にとっては目障りですから、炊屋姫を味方につけて穴穂部皇子を殺すように詔を出してもらいます。炊屋姫は馬子の姪です。この時点では天皇は空位であり、敏達天皇の皇后であったという立場は当時の朝廷における最高権力者でした。それを証明するものとして敏達天皇の遺体はまだ埋葬されずに殯宮にあります。ところが用明天皇は亡くなってすぐに皇居の近くに埋葬されてしまっています。用明天皇は天然痘(日本書紀では「瘡」)で亡くなったとありますから、埋葬を急いだのかもしれないですが、天然痘は感染症ですが天皇の近親者が感染したという記事は見当たりません。ここに用明天皇を早く埋葬したことで、炊屋姫の立場を有利にする意図があったことが読み取れます。
 穴穂部皇子と共に殺害された宅部(やかべ)皇子との関係について、清水守民氏は愛人関係にあったとし、一般的には仲がよかったと書かれていますが、その根拠は『日本書紀』にある「善」という言葉です。この「善」という言葉をどう解釈するかということになります。「善」という関係だけで殺害されなければならなかったのか不思議に思います。
 宅部皇子の名前は『日本書紀』のこの部分にだけ登場します。そして名前の後に「檜隈天皇之子、上女王之父也、未詳」と注釈があります。檜隈天皇とは宣化天皇を指します。さらに上女王の父とあります。その後に「未詳」と書いています。この「未詳」という言葉が上女王のことを言っているのか、もしかすると宅部皇子と上女王の二人のことなのかもしれません。事実宅部皇子も上女王についてもはっきりした記録がありません。もしかして大変重要な人物であったことで、あえて記録を残さなかったということもないわけではありません。宣化天皇の娘には敏達天皇の母の石姫皇后がおり、天皇はわざわざ母の墓に埋葬されていますから、宣化天皇の息子である宅部皇子にも皇位をうかがう可能性があり、それを馬子が警戒したということはあり得ます。ただ『日本書紀』では三輪逆の殺害について、泊瀬部皇子(はつせべのおうじ、後の崇峻天皇)が関与していたと書いてますから、むしろ泊瀬部皇子の方が穴穂部皇子と「善」の関係にあったのではないかとも考えられます。


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