藤ノ木古墳の被葬者は二人の男性?
藤ノ木古墳には二人の人物が合葬されています。これは棺の中から二人分の人骨が見つかっていますから間違いありません。それではこの二人は誰なのかと言うことが問題になります。当ブログで紹介した清水守民氏はその著書で被葬者は「穴穂部皇子と宅部皇子」であり、二人は恋人関係にあったと述べています。日本の古墳には被葬者が誰であるかを記した墓誌(ぼし)がほとんど納められていません。藤ノ木古墳にも墓誌がありません。もし墓誌があれば疑問の余地なく被葬者が特定されますから、墓誌がないというのは本当に残念なことです。
墓の形状が円墳であることから大王の階級ではないということですが、貴金属を用いたきらびやかな副葬品が多く、強大な権力と財力を持った人物であったと推測されています。
二人の人物について、前園実知雄氏や白石太一郎氏は、二人の被葬者が『日本書紀』が記す587年6月の暗殺時期と一致することなどから、聖徳太子の叔父(母の弟)で、蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と、宣化天皇の皇子とされる宅部皇子の可能性が高いと論じています。
骨の残存状態が悪く骨盤が残っていない南側の被葬者について、1988年(昭和63年)から1990年(平成2年)にかけて内視鏡による石棺内調査や発掘人骨の検査▪︎分析を担当した骨考古学者の片山一道▪︎京都大学名誉教授は、僅かに残った「距骨(きょこつ)」(足首の骨)と「踵骨(しょうこつ)」(かかとの骨)に基づいて、平成5年(1993)『第2次▪︎第3次調査報告書』で被葬者については男性、南側の人物も男性の可能性が極めて高いと指摘しています。考古学者の間壁葭子氏(神戸女子大学名誉教授)は、古墳の規模と合葬の関係で、男性二人同時埋葬は被葬者にとり誇るべきものではなく、よほどの緊急のことが起きたのではと、疑問を述べています。
前園実知雄(まえぞのみちお)氏は昭和21年(1946)に愛媛県で生まれ、県立松山東高校、同志社大学文学部卒業。1969年奈良県立橿原考古学研究所に勤務。太安萬侶墓、藤ノ木古墳、法隆寺、唐招提寺など多くの発掘調査を行いました。奈良芸術短期大学教授、公益財団法人愛媛県埋蔵文化財センター理事長、橿原考古学研究所特別指導研究員、真言宗豊山派法蓮寺住職。主な著書に『斑鳩に眠る二人の貴公子藤ノ木古墳』(シリーズ「遺跡を学ぶ」新泉社2006)があります。奈良芸術短期大学は橿原市久米町222にある美術科のみの共学の単科大学。設置者は学校法人聖心学園ですがキリスト教とは関係がありません。
白石太一郎(しらいしたいちろう)氏は1938年大阪市生まれ。大阪星光学院高校を経て、1961年同志社大学文学部文化学科文化史専攻を卒業し、同大学大学院に進みました。1969年橿原考古学研究所に勤務。1978年に文化庁国立歴史民俗博物館設立準備室調査官になり、1981年に同館が開館すると助教授に、1984年に教授。2004年退職後、奈良大学文学部教授。2009年同大学を定年退職。その後は大阪府立近つ飛鳥博物館館長に就任。
間壁葭子(まかべよしこ)氏は1932年岡山市に生まれ、1955年岡山大学法文学部史学科卒業。神戸女子大学史学科教授。倉敷考古館学芸員(兼務)。