伊豆七不思議ー独鈷の湯

独鈷の湯(とっこのゆ)は伊豆市の修善寺温泉のシンボルとなっている温浴施設で、伊豆最古の温泉と言われています。温泉街を流れる修善寺川(通称桂川)の川の中にあります。この場所が川中に突き出た形状から、豪雨の際に流れが阻害され、氾濫を引き起こす原因になるということで、平成21年(2009)4月に静岡県により19m下流の川幅の広い場所に移されています。これは平成16年(2004)10月に台風22号により修善寺川が増水して温泉街が被害を受けたためと思われます。独鈷の湯は法律上の浴場ではなく、入浴はできません。「独鈷の湯」にまつわる伝説です。
弘法大師空海が大同2年(807)にこの地を訪れたとき、桂川で病気の父親の体を洗う少年を見て、その孝行に感心した大師は、川の水では冷たかろうと、手に持った独鈷杵(とっこしょ)で川中の岩を打ち砕き、霊泉を噴出させました。大師が温泉が病気に効くことを教え、これにより十数年に及んだ病気が時間を置かずに完治しました。それからはこの地方に湯治の療法が広まり、修善寺温泉が始まったとされています。以上が「独鈷の湯」の伝承です。
修善寺温泉は伊豆箱根鉄道駿豆線の終点「修善寺」駅からバスで8分。アルカリ性単純泉で、修善寺川の河岸に温泉宿や飲食店が並んでいます。
空海が開いた寺は、当時の地名から「桂谷山寺」と言って約470年間真言宗でしたが、鎌倉時代初期に「修善寺」の名前が定着し、建長年間(1249ー1255)蘭渓道隆(らんけいどうりゅう、鎌倉の建長寺の開祖)によって臨済宗となり、禅宗の寺院となったことから「修禅寺」と称するようになったと言われています。その後戦乱や火災により荒廃しましたが、伊豆を支配した北条早雲の叔父によって曹洞宗の寺院として再興されました。正式名称は「福地山修禅萬安禅寺(ふくちざんしゅぜんばんなんぜんじ)」と言います。住所は伊豆市修善寺964.。温泉街の中心にあります。寺の名前は「修禅寺」、地名は「修善寺」です。一字違いですが間違わないように注意が必要です。
弘法大師が温泉を掘るのに使った「独鈷」は日本では天台宗や真言宗、禅宗で使われる法具の「金剛杵(こんごうしよ)」の一つの「独鈷杵(とっこしょ)」です。独鈷杵は槍状の刃が柄の上下に一つずつ付いた形をしています。「金剛杵」はインド神話に由来する武器をかたどったものです。
修善寺川は一級河川の狩野川(かのがわ)水系の川で延長が7.3km。
修善寺は源頼朝の異母弟で義経の異母兄にあたる範頼(のりより)と実子の頼家が幽閉されて殺害されたと言われており、二人の墓があります。明治25年(1892)に修善寺を訪れた正岡子規は「此の里にかなしきものの二つあり範頼の墓と頼家の墓」と歌を詠んでいます。範頼は建久4年(1193)に配流が決まると直ちに修善寺に連行され、修善寺に隣接の日枝神社にあった信功院に幽閉されましたが、その後の消息は不明で、定説では翌年に梶原景時(かじわらかげとき)らに襲撃されて信功院で自害したとされていますが、落ち延びたという説もあります。義経に似た話です。こうした生存説が生まれるのは冷酷な頼朝に対する世の人の反感からなのでしょうか。範頼が自害したという信功院跡には庚申塔があります。日枝神社は空海が修善寺の鬼門の鎮守として創建した「山王社」が起源で明治の神仏分離で修善寺から分かれました。範頼の墓は鹿山の麓にあります。その鹿山には頼家の母の北条政子が頼家の冥福を祈って修善寺に寄進した経堂の指月殿(しげつでん)があります。場所は修善寺934。現存する伊豆最古の建造物といわれ、堂内中央の丈六釈迦如来座像は右手に蓮の花を持つという珍しい仏像です。伊豆は北条氏の本拠地であり、修善寺から約10km北の守山(伊豆の国市)には北条時政の館がありました。


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