見桃寺ゆかりの人物ー向井将監

三浦三十三観音札所会のサイトには見桃寺の創設者として向井政綱の名前があります。向井政綱(むかいまさつな)ほウィキペディアでは「正綱」となっています。なお向井と名乗ったのは正綱からで、それ以前は「向」でした。また、将監(しょうげん)と名乗るのは正綱の息子の忠勝(ただかつ)からです。
向氏の発祥地は伊賀,伊勢の国境に位置する伊勢国向庄。この場所は太閤検地により伊勢国鈴鹿郡大字加太向井(現在の三重県亀山市加太向井)になります。加太向井は「かぶとむかい」と読みます。
正綱の父の正重の時に駿河に移り今川義元に仕えます。今川氏滅亡後は武田信玄より「海賊の儀」として招かれて活躍します。天正7年(1579)徳川家康の攻撃を受けて正重は自害しています。武田氏が滅亡すると、正綱は家康に帰順し、家康が関東に移封されると相模国の三崎に住むようになります。これは三崎が家康の直轄地となった三浦半島や江戸湾の海防の要の地であったためです。この時正綱は「三崎四人衆」や「徳川御船手四人衆」などと呼ばれます。
正綱は弘治元年(1556)に生まれ、寛永元年(1624)に亡くなっていますから、見桃寺の創建を寛永5年とするのは、寺が完成したという意味かもしれません。
正綱は駿河に住んでいたことがありますから、見桃寺の開山に興津の清見寺の僧侶を招いたということになります。
正綱の息子の忠勝は、官位が左近衛将監であったことから「向井将監」と名乗ります。以後、11代にわたり将監を世襲します。
忠勝は父の存命中に、徳川秀忠により、父とは別に相模▪︎上総に800石を拝領し、下総国葛飾郡堀江(現在の千葉県浦安市)に陣屋を置いたという記録があります。
忠勝は造船技術を父親から受け継ぎ、寛永9年(1632)には徳川家光の命により、江戸幕府最大の安宅船(あたけぶね、軍船)である御座船「安宅丸(あたけまる)」を建造しています。
向井正綱▪︎忠勝父子は家康が国際貿易港として開港した浦賀湊におけるスペイン貿易に携わり、浦賀貿易を統括し、浦賀を出航するスペイン商船の渡海朱印状を仲介しています。
向井忠勝は天正10年(1552)に生まれ、寛永18年(1641)に亡くなっています。
向井一族の墓は見桃寺の墓地にあり、平成25年(2013)に「向井将監一族の墓」として三浦市指定重要文化財になっています。供養塔碑6基、宝筺印塔2基の8基があり、向井正綱、忠勝父子の墓もあります。見桃寺の墓地は入り口に向かって右方向の少し離れた場所にあります。
清見寺(せいけんじ)は正式名称を、巨鼇山(きょごうざん)求王院(きゅうおういん)清見興國禪寺と言います。臨済宗妙心寺派の寺院。本尊は釈迦如来。寺伝によると創建は白雉年間(650~654)とあり、平安時代には清見関(きよみがせき)に置かれた天台宗の寺院でした。鎌倉時代に禅宗の寺院として復興し、足利尊氏や今川義元の帰依を受けて繁栄します。家康は今川氏の人質になっていた時に当寺の住職大原雪斎に師事しています。江戸時代には徳川氏の庇護を受けたほか、東海道の目の前にあることから、朝鮮通信使や琉球使の接待所として使われ、朝鮮通信使遺跡として国の史跡指定を受け、庭園も国の名勝になっています。駿河湾を望む風光明媚な高台にあります。東海道本線が境内を横切っています。JRの興津駅から徒歩約15分。


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