那須国造の系譜に登場する人物ー武渟川別
那須国造について、『先代旧事本紀』「国造本紀」には、第12代景行天皇の時代に建沼河別命の孫の大臣命が初代那須国造に任命されたと書かれています。大臣命(おおおみのみこと、おほおみのみこと)は孝元天皇の皇子の大彦命の子の建沼河別命の孫と国造本紀に書かれていますが、父の名前がありません。また大臣命についてもそのプロフィールはよくわかりません。それで『古事記』や『日本書紀』に記述がある大臣命にとっては祖父にあたる建沼河別命と曽祖父になる大彦命のプロフィールを紹介します。
建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)は、『古事記』の表記であり、『日本書紀』では「武渟川別」「武渟河別」となっています。ウィキペディアでは「武渟川別」と書いています。
武渟川別は第8代孝元天皇皇子の大彦命の子で、阿倍氏の祖で四道将軍の一人です。四道将軍は、『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条で、武渟川別を東海に、大彦命を北陸に、吉備津彦命を西道(山陽道)に、丹波道主命を丹波に派遣するとあり、この4人の将軍を総称して四道将軍と言います。彼らは10月22日に出発し、翌年4月28日にそれぞれの任務を果たしたとの報告をしています。
武渟川別は『日本書紀』崇神天皇60年7月14日条には、天皇の命により吉備津彦命と共に出雲振根を誅殺しています。出雲振根(いずものふるね)の事件とは、『日本書紀』によると崇神天皇は武日照命(たけひなてるのみこと)が持って来られたという神宝が出雲大神の宮に納められているがその神宝を見たいと言われ、使者が出雲に遣わされました。使者が出雲に着いた時にはちょうど出雲振根は筑紫に出かけていて留守でした。天皇の命令ということで振根の弟が独断で神宝を貢上しました。筑紫から帰ってそれを知った振根は弟を恨み、ある日弟を水浴びに誘って殺害します。弟の子供がこのことを詳しく朝廷に話したので、天皇が吉備津彦と武渟川別を遣わして振根を殺させました。
また、垂仁天皇25年8月8日条では、武渟川別は、和珥臣の祖の彦国葺(ひこくにふく)、中臣連の祖の大鹿島(おおかしま)、物部連の祖の十千根(とおちね)、大伴連の祖の武日(たけひ)らとともに「大夫(まえつきみ)」の一人に数えられており、天皇から神祇祭祀のことを命じられています。
『日本書紀』に書かれている武渟川別に関わる年代を見ると、崇神天皇10
年と60年、そして崇神天皇の次の天皇である垂仁天皇の25年となっています。崇神天皇は68年に崩御し、その翌年の1月2日に垂仁天皇が即位しています。それから考えると、崇神天皇10年から垂仁天皇25年までは約80年あります。この時代の天皇の年齢が100歳を超えていますが、武渟川別も崇神天皇10年の時に何歳であったかわかりませんし、また垂仁天皇の25年以降いつ亡くなったかもわかりませんが、武渟川別も100歳以上生きたということになります。崇神天皇11年の時の武渟川別、同60年の時の武渟川別、垂仁天皇25年の時の武渟川別がいたのではないかと思います。このうちの誰かの孫が初代の那須国造に任命されたということではないでしょうか。
『古事記』では、崇神天皇の代に大毘古命(大彦命)は高志道に、建沼河別命は東方十二道に派遣されたとし、大毘古命と建沼河別命が出会った場所が「相津」(現、福島県会津)と名付けられたとする地名起源説話を伝えています。