鈴木重家の後日談(4)ー栗原市の鈴木館その2

栗原市金成大原木の鈴木館は鈴木重家が住んだということが栗原市教育委員会の案内板に書かれていますが、どういう経緯でここに重家が住んだかについては書かれていません。ただこの金成には平泉の藤原氏との関係を示す伝承があります。栗原市金成普賢堂(かんなりふげんどう)字普賢南に地名の由来となった普賢堂があります。最初はこの地に坂上田村麻呂が勝宮寺を創建し、その後、寛治2年(1092)に藤原清衡が山麓に四ヶ寺を建て、さらに基衡が康治元年(1142)に里宮2ヶ寺を建立しましたが、南北朝時代の応永年間(1370年頃)一山ことごとく炎上し、戦国時代の天正6年(1578)葛西氏によって普賢堂が建立されましたが、葛西氏没落後はこの地は荒廃したという歴史があります。藤原氏がここに寺院を営んでいたことから、重家が寺の運営のために派遣されていた可能性が窺えます。
一方の亀世御前ですが、三河国本城村からこの地に来たとあります。三河国本城村の場所についてはよくわかりません。重家と三河の関係については、彼の叔父にあたる鈴木重善が三河鈴木氏の始祖になります。「源平合戦と鈴木氏(1)ー源氏との深い関係」に書いてあります。ただ重善が三河国に土着したのは重家が討死した後ということなので、重家が重善に育てられたのが三河であればつじつまが合いますが、重善のつながりではないようです。ただ亀世御前は三河国の出身とわざわざ書いていますから、そこは事実なのでしょう。亀世御前は三河の有力者の娘であったことは確実なようで、重家の菩提を弔うために建てた喜泉院の資金は実家の支援によると思われます。
喜泉院は現在は曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦牟尼仏です。日本の曹洞宗は道元によって伝えられますが、道元は1200年生まれで、鈴光尼がこの寺を創建したのは重家が平泉で亡くなったとされる1189年よりそれほど時間が経っていないと思われますから、当初から曹洞宗ではありません。熊野と関係の深い天台宗であったかもしれません。長い歴史を経過して現在も鈴光尼の伝承を伝えているのは奇跡的です。アクセスは東北新幹線くりこま高原駅から車で約20分。市民バスの獅子鼻バス停から徒歩4分とあります。市民バスについては栗原市役所でお尋ねください。
鈴木高重が討死した葛西(かさい)一揆は一般では葛西•大崎一揆といい、この地域の支配者であった葛西氏と大崎氏の当主が豊臣秀吉の小田原攻めに参加しなかったことで秀吉により領地を召し上げられたことが原因で、両氏の旧家臣が秀吉により任命された新しい領主に対して起こした反乱です。高重も旧領主に味方して参戦した結果討死したことになります。反乱は伊達政宗によって鎮圧されますが、新領主も反乱が起きた責任を問われ改易されてしまいます。高重が亡くなった桃生(ものう)郡深谷(ふかや)村は明治29年(1896)まで存続しており、桃生郡の西部、現在の石巻市や東松島市の一部になります。
南北朝時代の出来事については、教育委員会の案内板では南朝方に肩入れしている感じがします。興国は南朝の年号で、陸奥守として当地に来た北畠顕信(きたばたけあきのぶ)が津久毛橋(つくもばし)城を拠点にしたのに対して、北朝方の石塔義房(いしどうよしふさ)は釜(鎌)糠城を向城にして対抗し、結局顕信は敗れて出羽方面に逃れたというのが歴史上の出来事です。この釜糠(かまぬか)城が大原木館(鈴木館)だといわれています。大原木館は標高60mほどの東西に長い丘陵にあり、喜泉院の裏山になります。
「鬼柳(おにやなぎ)文書」は東北大学に所蔵されている旧南部藩士の鬼柳家に伝わった古文書。
大原木地区は鈴木重家の子孫と称する鈴木氏が領主であったことから、現在も住民の大部分が鈴木姓ということですから、ここでも重家の足跡が残っています。



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