敏達天皇時代の崇仏派と排仏派の争いの1
仏教の受容をめぐる第一回の争いは、欽明天皇の時代に物部尾輿らによる向原寺の焼き討ちと仏像を難波の堀江に捨てるということで一応の決着を見ましたが、崇仏派と排仏派の争いは次の敏達天皇の時代になって再燃します。崇仏派は蘇我稲目の子の馬子(うまこ)、排仏派は物部尾輿の子の守屋(もりや)が中心人物です。親同士の争いが子供に引き継がれます。
敏達天皇14年(585)、病気になった大臣▪︎蘇我馬子は天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めました。天皇はそれを許します。ところが前回と同じように、この頃から疫病が流行し始めます。そこで守屋と中臣勝海(なかとみのかつみ)は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、仏法の禁止を求めました。その奏上を受けて天皇は仏法を止めるように詔を出します。守屋はその詔に従って自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、さらに馬子や司馬達等らの仏法信者を面罵した上で、達等の娘の善信尼、およびその弟子の恵善尼、禅蔵尼の3人の尼を捕らえて衣服を剥ぎとって全裸にして、海柘榴市の駅舎に連行し、群衆の目前で鞭打ちの暴行に及び、仏教を弾圧する暴虐さを見せつけました。
敏達天皇(びだつてんのう、538?~585? 在位572?~585?)は第30代天皇。和風諡号は渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)。別名は他田(訳語田)天皇(おさだのおおきみ)。欽明天皇の第二皇子ですが、同母兄が死んだことで皇太子になり、欽明天皇の崩御を受けて即位します。敏達天皇の皇居は初めは百済大井宮(くだらのおおいのみや)に置かれます。その場所は大阪府河内長野市太井や奈良県北葛城郡広陵町百済など諸説があります。その後卜占の結果により敏達天皇4年に訳語田幸玉宮(おさだのさきたまのみや)に遷ります。この場所は桜井市太田(おおた)205にある他田坐天照御魂(おさだにますあまてるみたま)神社と同じ桜井市戒重(かいじゅう)557にある春日神社とする説があります。敏達天皇は排仏派寄りで、それに力を得た守屋らは前述の仏教弾圧を行います。天皇自身も病気になり、この年の8月15日に崩御します。天皇には皇太子がなく、異母兄弟の大兄皇子が即位します。聖徳太子の父の用明天皇です。
中臣勝海(なかとみのかつみ、生年不詳~587)は、『日本書紀』によると、敏達天皇14年3月物部守屋と共に疫病流行が蘇我氏の仏教信仰が原因であると奏上しており、また敏達天皇の後を受けて即位した用明天皇が病気になり、仏教に帰依すると詔した時にも守屋と共に反対します。そして守屋の挙兵に呼応して自宅に兵を集め、押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ、敏達天皇の第一皇子、舒明天皇の父)と竹田皇子(たけだのみこ、敏達天皇と推古天皇の皇子)の像を作り呪詛しましたが、守屋の反乱計画の不成功を知って彦人大兄皇子に帰服して、皇子の水派宮に行き、帰ろうと門を出たところで跡見赤檮に殺害されました。跡(迹)見赤檮(あとみのいちい、生没年不詳)は、彦人大兄皇子または聖徳太子の舎人とされる人物です。後に物部守屋も射殺しています。水派宮は武烈紀に「水派邑(みまたのむら)」が出ており、水派宮もその場所にあったと思われます。「水派」は水(川)が分かれる場所の意味で、現在ではその場所は寺川と粟原川の合流点、桜井市上之庄、東新堂付近との説が有力視されています。