石船神社ーニギハヤヒの最初の降臨地?

京都府京田辺市高船里111にニギハヤヒの降臨地の伝承があります。神社の名前は石船(舟)神社。降臨地にピッタリの名前です。石船(いわぶね)神社の由緒について京田辺市観光協会のサイトからの引用です。「創建年代など不詳。もとは八王神の社(はちおうじんのやしろ)といった。言い伝えでは饒速日命が天磐船(あまのいわぶね)に乗り、この地の櫂峰(かじがみね)に降臨し、そのあと河内の哮峰(たけるがみね)に天降り(あもり)、大和国鳥見(やまとのくにのとみ)白庭山に遷ったとされる。その降臨地にちなんで奉祀されたのが石船神社である。北の山原には船石と伝わる石があり、また船を繋ぎとめたといわれる松が櫂峰つづきの大将軍の山上にあったが、今は枯れて古株だけが残っている。明治6(1873)年、村社となり、明治14(1881)年、岩船神社とあらためられ、現在は石船神社と表記。」とあります。
祭神は饒速日命が中央の社殿に祀られ、その両脇に配祀神として大国主命と事代主命を祀る社殿があり、この三つの社殿が一つの覆屋の中に収められています。饒速日命が主祭神です。
京田辺市観光協会の上記の記事にある、「言い伝えでは」というところですが、その出典は『神社明細帳』で、そこには次のように書かれています。「古老の伝曰、天饒速日命天磐船に乗り、櫂峯に降臨、夫れより河内国哮峯に到る。大和国鳥見白庭山に遷る所の神也と云う」とあります。「古老の伝」とありますから地元でそのように伝えられていたようです。
ニギハヤヒの最初の降臨地と伝える「櫂峰」のある石船神社はかつての山城国綴喜(つづき)郡でニギハヤヒやナガスネヒコの本拠地である河内や大和ではありません。山城国というと離れているように思いますが、この場所は意外と生駒市や交野市に近いのです。特に奈良県とは府県境にあり、この場所の南は、茶道具の茶筅(ちゃせん)の里として知られる生駒市高山(たかやま)です。高山には「高船口」のバス停があります。このバス停から神社までは徒歩20分くらい、また近鉄「学研北生駒駅」からも徒歩1時間くらいで行けます。
石船神社を北の頂点にすると、西に交野市の磐船神社、南に鳥見の里という位置関係になります。したがってこの地域にニギハヤヒの伝承がもたらされたとも考えられます。
石船神社から北に徒歩約15分の場所に式内社の「朱智(しゅち)神社」があります。この神社の祭神は迦爾米雷王命(カニメイカヅチミコノミコト)で、この祭神は開化天皇第三皇子の彦坐王(ヒコイマスノミコ)の孫で神功皇后(息長足媛命)の祖父になり、息長氏(オキナがウジ)の始祖とされます。彦坐王の母は物部氏の出ではありませんが、開化天皇は物部氏から三人の娘を妻に迎えて関係が深いですから、、当地にも物部氏が拠点を置いていた可能性があります。
石船神社の名前の由来となった「船石」ですが、極楽寺との間にある山道にあり、極楽寺の手水舎の背後に半分近く埋もれている巨石が二つあり、これがその石だとのことです。
「真弓塚はニギハヤヒの墓?(2)」で紹介しました谷川健一氏の『白鳥伝説』に真弓塚からは、大和、河内、山城が見えるとありましたが、石船神社が念頭にあったのかもしれないです。
京田辺市高船はもとは高船村で、それが普賢寺村になり、田辺町に編入され、田辺町の市制施行により京田辺市になりました。普賢寺村の名前は、大御堂観音寺に由来し、本尊の十一面観音像は国宝に指定されています。
なお「高船口」のバス停には、近鉄富雄駅から庄田行きに乗ります。神社近くの「高船」バス停へは近鉄京都線「三山木(みやまき)」駅からバスがあります。JR学研都市線の「三山木」駅が隣接しています。奈良交通の運行ですが1日2便と不便です。



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