叡福寺ーその創建について

 叡福寺(えいふくじ)は大阪府南河内郡太子町太子2146にあります。町の名前も在所名にも「太子」とあり、聖徳太子ゆかりの町であることをアピールしています。聖徳太子は町の誇りと言っても過言ではありません。この叡福寺は「上の太子(かみのたいし)」とも言い、「上の太子」は近鉄南大阪線の駅名でもあります。ただしこの駅は太子町ではなく、羽曳野市飛鳥(あすか)816ー1にあります。この駅は、準急と普通の停車駅です。大阪阿部野橋駅を起点とする近鉄南大阪線で長野線との分岐の古市から2つ目の駅になります。太子町には鉄道の駅がないため、駅前から太子町のコミュニティバス「たいしのってこバス」があり、叡福寺の東側に「聖徳太子御廟前」バス停があります。また叡福寺の前には同名の停留所があり、こちらは長野線の喜志駅からのバスが停まります。ちなみに「中ノ太子」は羽曳野市野々上(ののうえ)5丁目9ー24にある野中寺(やちゅうじ)、「下(しも)の太子」は八尾市太子堂(たいしどう)3丁目3ー16の大聖勝軍寺(たいせいしょうぐんじ)で共に聖徳太子建立の三太子と言われています。野中寺も大聖勝軍寺も高野山真言宗の寺院。野中寺の本尊は薬師如来ですが、飛鳥時代の金銅弥勒菩薩半跏像(重要文化財)が所蔵されおり、旧伽藍跡は国の史跡に指定されています。大聖勝軍寺は物部守屋との関連であらためて紹介します。 
 叡福寺は真言宗系の太子宗の本山。山号は磯長山(しながさん)。本尊は如意輪観音。
 叡福寺の開基は聖徳太子または推古天皇、聖武天皇とも言われます。これはどういうことかと言うと、聖徳太子は亡くなる2年前の推古天皇28年(620)にこの場所を自分の墓所と定めたと言われています。その翌年には母親の穴穂部間人皇女が亡くなり、この場所に墓が造られ埋葬されます。さらにその翌年の推古天皇30年(622)には妃の菩岐々美郎女と太子が相次いで亡くなり、穴穂部間人皇女の墓に二人が追葬されます。太子がこの場所を墓所に決めてからわずか2年のうちに三人共に亡くなってしまいます。聖徳太子ほどの人物ですから自分の死だけでなく、母や妃の死を予感して墓所を決めたのかもしれません。この地を墓所として決めた理由として、太子にとっては伯父に当たる敏達天皇の墓があること。さらに父親の用明天皇が推古天皇元(593)年に近くに改葬されていることが考えられます。用明天皇は死後すぐに皇居のあった磐余池の近くに埋葬されていましたが、改めて墓が造られたということになります。    太子の没後、推古天皇より方六町の土地を賜り、墓守りの家が十軒置かれました。そして霊廟を守る香華寺として僧坊を置いたのが寺の始まりと伝えています。太子が亡くなって約1世紀後の神亀元年(724)に聖武天皇の発願により、東院と西院の2つの七堂伽藍が整備され、東院は転法輪寺(てんぽうりんじ)、西院は叡福寺と称したと寺では伝えています。ただしこのことは正史には書かれていないことから、叡福寺の創建年代については諸説があります。実際の創建は平安時代以降に下るとする見方もあります。平安時代末期の承安年間(1171~1175)には高倉天皇の勅命により、平清盛の息子の重盛が堂塔の修理を行っています。

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