源頼朝は頼朝坊の生まれ変わり?その2

 諸国をめぐり歩き、如法に書写した法華経を各地の寺社、霊場に奉納して歩く巡礼者を回国聖(かいこくひじり)というが、そのなかでとくに各国一カ所ずつの聖地に一部八巻ずつ納経して歩いた、六十六部聖(略して「六部」)がすでに鎌倉時代に出現しており、信濃では善光寺がその霊場となっていたことは、金沢文庫のなかに、「社寺交名(しゃじきょうみょう)」と名づけられた六十六ヵ国の霊場リストが残されていることからわかるが、こうした六十六部は中世後半になると、さらに広範にその活動がみられるようになった。六部は納経のさいには霊場に備えつけられた受付帳に記帳し、奉納をうけた寺社側では、六部にたいして受取状を発給した。(中略) 中世の唱導説話のなかに、北条時政あるいは源頼朝の前世が六十六部の回国聖であったとする伝承があり、法華経を書写した功績によって、頼朝が将軍として生まれ変わったとか、北条氏が執権として天下を掌握できたといった説話の構成になっている。とくに前者は頼朝坊伝承、あるいは頼朝転生譚(てんしょうたん)と呼ばれ、横浜市金沢文庫所蔵の『六十六部縁起』や仏教説話集の『三国伝説』などに描かれているが、建久八年(一一九七)の善光寺参詣の事実を下敷きとしてできたらしいこの説話は、回国聖によって主として東国に伝わっていった。長野市茂菅にある静松寺(浄土宗)には、回国聖の頼朝坊が死去したところであるとの伝承とともに、その使用したとされる箱笈(おい)が伝わるが、長野市の近隣には、ほかにも回国聖によってもたらされたとみられる伝承が多く残されている。とあります。
さらに別の記事には、「源頼朝が六十六部聖の元祖?」として、金沢文庫古文書に「社寺交名」という文書があり、湯之上隆氏の論考によると、そこに書かれている寺社のリストは六十六部達が訪れた納経所である、とのことです。そして、この文書の裏面に書かれているのは、源頼朝は前世に頼朝房という六十六部聖であり、法華経の書写と奉納の功徳によって将軍に生まれ変わったという、縁起物語なのです。さらに湯之上氏は、この縁起は東国の武家社会へ勧進活動を進めるための唱導説話でもある、と論じています。とあります。
 北条時政に関しては、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」では、江ノ島に参籠した北条時政に弁財天が現れ、前世は法華経66部を書写して66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を享けたと告げる場面が記されています。中世後期から近世にかけて、源頼朝、北条時政、梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世を六十六部廻国巡礼者とする伝承が定着していました。これらは「六十六部廻国巡礼」の起源が関東にあることを示唆しています。ノートルダム清心女子大学の小嶋博巳氏に『縁起と巡礼ー頼朝転生譚と六部たち』という論文があります。
 唱導説話の「唱導(しょうどう)」とは、仏法を説いて衆生を導く語りものであり、数ある日本の話芸にとって、その源流の一つであり、日本史上では、特に中世において大きな展開を遂げたものです。本来的には、唱導ないし説教とは経典を講じ教義を説くことであって、それ自体は文学でも芸能でもありませんでしたが、文字の読み書きのできない庶民への教化という契機から音韻抑揚をともなうようになったものです。

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