那須国造碑を保存したのは徳川光圀
那須国造碑は永昌元年(689)に那須国造で評督に任ぜられた那須直韋提(なすのあたいいで)の事績を息子の意斯麻呂(いしまろ)らが顕彰するために11年後の700年に建立されたものです。
この石碑を発見したのは僧侶の円順と庄屋の大金重貞らで、石碑は草に埋もれていました。江戸時代の延宝4年(1675)のことです。天和3年(1683)に那須郡に領地を有していた水戸藩主の徳川光圀が知るところとなって笠石神社を創建して石碑の保存を命じました。さらに、碑文に記された那須直韋提、意斯麻呂父子の墓と推定した上侍塚古墳と下侍塚古墳の発掘調査と史跡整備を家臣の佐々宗淳に命じています。碑文は表面を下にして埋もれていたため、碑文が風化することなく保存されたと推定されます。ただし上侍塚古墳と下侍塚古墳は考古学的には5世紀の築造と推定されており、那須国造碑が建てられるはるか以前のことになります。石碑は現在、笠石神社の御神体として祀られています。
那須国造の韋提は評督に任じられましたが、「評」は、「ひょう」とも「こおり」とも読み、大宝律令で地方の行政区域を表すのが「郡」に統一されるまでは、「評」の表記が使われました。これは当ブログでもすでに説明しています。したがって「評督」とは「郡司」というのと同じことになります。
徳川光圀(とくがわみつくに)は、一般には「水戸黄門(みとこうもん)」として知られています。テレビの時代劇でも放映されました。光圀が身分を隠して諸国を訪ね、そこで不正を見つけた時に徳川家の象徴である三つ葉葵の紋が入った印籠を取り出して身分を明らかにして悪者を成敗するというストーリーでした。この時に黄門様のお供をしたのが「助さん」「格さん」で「助さん」のモデルが佐々宗淳(さっさむねきよ)だと言われます。実際の光圀は関東地方以外には出かけていません。徳川光圀(1628~1701)は徳川家康の十一男で、徳川御三家の一つ水戸徳川家の始祖となった頼房(よりふさ)の三男で、家康の孫になります。頼房の後を継いで水戸徳川家の第2代藩主になります。諡号は「義公」、字名は「子龍」、号は「梅里」、神号は「高譲味道根之命(たかゆずるうましみちねのみこと)」。「水戸黄門」の「黄門」は中納言や権中納言の唐名で、水戸徳川家にはこの官職に任じられたのが光圀を含めて7人いますから、7人の「水戸黄門」がいたことになります。水戸徳川家は御三家という高い格式ですが、石高は他の2家より少なく、家格と収入がつりあわないため、当初から財政的に苦しかったのですが、光圀が『大日本史』の編纂事業を始めたため、それにより一層財政に重荷となったという指摘もあります。光圀の少年時代は素行不良で教育係の小野言員(おのときかず)が「小野言員諫草」を書いて自省を求めました。18歳のとき、『史記』の伯夷伝を読んで感銘を受け、それがきっかけで勉学に励みます。元禄3年(1690)10月14日幕府から隠居の許可がおり、翌年には隠居所(西山荘)で暮らすようになります。元禄13年12月6日(1701年1月14日)に亡くなりました。
伯夷伝は、古代中国殷代末期の孤竹国(こちくこく)の王が三男の叔斉(しゅくせい)を後継者にしましたが、叔斉は兄の伯夷(はくい)を差し置いて王になることはできないと二人共に国を出てしまいます。光圀は異母兄を差し置いて家督を継ぎましたから、この話はいわば身につまされたということになります。