大兄彦君の系譜ー始祖の磐衝別命とは
金沢市御所町の加茂神社の境内に弁天堂があります。その説明板には次のように書かれています。「弁財天堂の由来 今より約一千年前に、加賀国造として隣国羽咋より此の地に派遣された垂仁天皇五世の孫大兄彦君の代々の古墳である八ッ塚の守護神として一号塚の辺に安置されて居たが、故ありて昭和四十九年此の地に遷座された。因みに弁財天は、七福神唯一人の女人神として美徳才智兼備した、理想の具現像である。堂内に座して居る牛像は、大兄彦君の財宝を此の地より八ッ塚に運ぶに力つきて座した姿である。其の地を牛ころび塚と呼ばれ、先年その辺りより供養塔が出土された。堂わきの塔はそれである」。
加茂神社に隣接した八塚山古墳には埋蔵金伝説があります。埋蔵金伝説は日本各地にありますが、中にはかなり真実味のある話もあるようです。ただ実際に埋蔵金を見つけたという話は聞いたことはありません。掘り当てた人が内緒にしているのかもしれませんが。
八塚山の埋蔵金伝説には二人の人物が登場します。一人は二条師基。南北朝時代の公卿です。もう一人は、垂仁天皇の五世の孫の大兄彦君(おおえのひこぎみ)です。第21代雄略天皇の時代に初代の加我国造に任じられたといいますから古墳時代の人物です。二条師基については既に説明していますから、ここからは大兄彦君の系譜について書いていきます。そして大兄彦君の一族は継体天皇と関わりがありますから、かほく市の賀茂神社の由緒にある、継体天皇の時代に御所の地に加茂神社が創建されたという伝承を補強することにもなるのではないでしょうか。
大兄彦君は、第11代垂仁天皇の第十皇子の磐衝別命(いわつくわけのみこと)の四世の孫とされます。垂仁天皇からは五世の孫になります。この時代、五世の孫までは皇族に数えられたようで、継体天皇も応神天皇五世の孫であり、ぎりぎりで皇位継承資格があったことになります。
磐衝別命は、生没年不詳。史書には事績に関する記載はありません。名前の表記は文献によって異なります。『上宮記(じょうぐうき、かみつみやのふみ)』では「伊波都久和希」。『上宮記』は、推古天皇の時代の7世紀頃に成立したと推定される歴史書。『記紀』よりも成立が古く、鎌倉時代後期まで伝わっていましたが、その後は散逸し、逸文が残るのみです。「上宮」は聖徳太子が幼少年期を過ごした宮。聖徳太子の伝記とする説や太子一族に伝来した歴史書という説があります。『古事記』では「石衝別王」、『日本書紀』や『新撰姓氏録』では「磐衝別命」。『先代旧事本紀』「天皇本紀」では「磐撞別命」、「国造本紀」では「石衝別命」。磐衝別命は、垂仁天皇と山背大国不遅(山代大国之淵)の娘の綺戸辺(かむはたとべ、弟苅羽田刀弁)との間に生まれました。同母妹には第14代仲哀天皇の母の両道入姫命(ふたじのいりひめのみこと、石衝毘売命)がいます。磐衝別命の子供には、石城別王(いわきわけ、伊波智和希)、水歯郎媛(みずはのいらつめ、第12代景行天皇妃の五百野皇女の母)がいます。また、『釈日本紀』所収の『上宮記』逸文には、五世の孫の振媛は彦主人王(ひこぬしのおう)に嫁ぎ、継体天皇を生んだとの記事があります。
磐衝別命の墓は、羽咋市の羽咋神社の境内にあり、宮内庁により「磐衝別命墓」に定められており円墳とされています。遺跡名は「羽咋御陵山古墳」。磐衝別命の墓は史書には記載がありませんが、大正6年(1917)に宮内省により公式に定められました。長さ100メートルの前方後円墳と見られ、5世紀中頃の築造と考えられます。またこの墓に隣接した円墳の「羽咋大谷塚古墳」は同じ大正6年に、宮内省により息子の「磐城別王墓」として定められました。