御船祭の諸手船

速玉大社の例大祭の「御船祭(みふねまつり)」は、速玉大社側からの視点で書いています(新宮の祭りー御船祭)。その中でも書いていますが、夫須美神の神霊を載せた「神幸船(しんこうせん)」を曳航する船を操るのが、熊野川の対岸にある三重県紀宝町の烏止野神社の氏子です。御船祭は鵜殿の石淵谷で祀られていた「結玉」の神を現在の速玉大社にお遷しする時に鵜殿の人たちが先導したという故事に由来します。
御船祭は10月16日。当日の朝7時過ぎに烏止野神社総代会の中から選ばれた十数人の諸手人たちは、烏止野神社、貴祢谷神社を参拝した後、諸手船を清酒と塩で清め、船に乗り込みます。船首には烏止埜浦(うどのうら)と染め抜いた大幡、中央には熊野大神宮の旗、船尾には吹流し、其の右後方に十番(1番から9番は早船がつけます)と書いた旗を立てて船の装いを整えます。
船は熊野川を遡り、約1km上流にある阿須賀神社に参拝。再び乗船して牛鼻神社へと向かい、途中ナベワリという場所で「かわらけ(素焼きの杯)」を割る儀式を行います。牛鼻神社に参拝後、再び船に戻り権現河原で神幸船の出番を待ちます。神幸船は既に速玉大社庫から出されて、熊野川に浮かべられており、この神船には神官が1人乗り込み、午後4時を過ぎる頃、神霊を収めた御輿が青年たちにかつがれて川に到着し、多数の神官たちによって神事が行われた後、神霊は神船に移されます。これを合図に同じ河原に待機していた九隻の早船が一斉にスタートします。早船の後から諸手船に引かれた神船が対岸の御船島を、右回りに三周します。この時、諸手船の中でハリハリ踊りが行われます。この儀式を「神霊渡御(みたまとぎょ)」と言います。
御船祭には神幸船、神官の乗る斎主船、早船、諸手船の4種類の船が参加します。
神幸船と斎主船は「御船祭」に書いています。早船については次章で紹介します。ここでは諸手船について以下に説明します。
諸手船(もろたぶね、もろとぶね)。貴祢谷社の案内板には「諸手船(もろとぶね)」と振り仮名があります。諸戸船と書いた資料もあります。熊野では神船を曳航する専用船です。古代に神倉(蔵)に降臨した熊野神が石淵谷から再び新宮に遷られた様子を再現したのが御船祭だと言います。神幸船が御船島を回る際に船上ではアタガイウチ(女装の男性)がハリハリ踊りを奉納します。
この諸手船は、『古事記』『日本書紀』に「熊野諸人船(クマノモロタノフネ)」、「天鳩船(アマノハトフネ)」の記載があり、『万葉集』にも真熊野の船と詠われ、当時からよく知られた船だったようです。『南牟婁郡誌』熊野諸手船の項に「その形大抵左右の手を小指と無名指と合わせたるが如くにて底の平板なく尖りて今いふ鯨などのさまなりといへり、是水を切る事するどき船なれば鳥にもたとえて天鳩船ともいひ、形を以て諸手船ともいひ、其の制する地名を以て熊野船ともいへるなるべし」と書かれています。
この三重県神社庁の説明を少し補足します。記紀に記載があるとあります。それはいわゆる「国譲り」の話で、高天原から交渉のために派遣されたタケミカヅチに対して、大国主命は長男の事代主の考えに従うと言います。その時、事代主は美保ヶ関で釣りをしていたので、その考えを聞くために熊野の諸手船に、使いの稲背脛(イナセノハギ)を乗せて遣わしたとあります。これを再現したのが、毎年12月3日に島根県の美保(みほ)神社で行われる「諸手船神事(もろたぶねしんじ)」です。「諸手船」で検索しますとこの行事のことが出てきます。新宮では早船競漕ですが、ここでは諸手船が競漕します。
『万葉集』の「真熊野の船」の歌とは、第6巻944番の山部赤人の歌「島隠れ(しまがくれ)あが漕ぎ来ればともしかも大和へ上るま熊野の船」。歌の意味は「島を巡りながら漕いで来た粗末な船の私ああ羨ましいあの船は大和へ上っていく立派な熊野の船だ」ということです。
『南牟婁郡誌』には、諸手船について、速度が速いので鳥に例えられたり、左右の小指と無名指(むめいし、くすり指)を合わせたような形から諸手船と言われるし、地名から熊野船とも言うとあります。また、たくさんの人が漕ぐから、諸人(もろびと)の手を意味するとの説もあるようです。


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