式内社「石村山口神社」の論社の一つ石寸山口神社その概要
『延喜式祝詞』の祈年祭において名前があげられている6座の山口(坐)神社として飛鳥山口坐神社の次に名前があがるのが「石村(いわれ)山口神社」です。「いわれ」というのは、当ブログの額田部皇子の事件でも書いていますが、履中天皇の時代に造られたという磐余(いわれ)池があった場所で、現在の桜井市西部から橿原市東部にかけてを言います。灌漑用の溜池が造られていることから、その水源となる山の神を祀ったということになります。「石村山口神社」は『延喜式神名帳』に「大和國十市郡(とおちぐん)石村山口神社(大。月次新嘗)」とある式内大社であるところから、かつては重要な神社であったことがわかります。この式内社については現在その論社が2社あります。「石寸(いわれ)山口神社」と「高田山口神社」です。どちらも桜井市にあります。このうち、「石寸山口神社」が有力とみられ、この神社に関する情報がネットに多く出ています。まず「石寸山口神社」から見ていくことにします。
式内社に書かれている社名が「石村」でその論社の一つが「石寸」と紛らわしいです。どちらも「いわれ」と読みます。「石村」の表記のほうがわかりやすいと思いますが、「石寸山口神社」は後述のように元は石寸山に鎮座していたことが名前の由来のようです。
石寸山口神社は桜井市谷(たに)502にあり、祭神は大山祇神です。旧社格は村社。桜井市のサイトによると、南面して鎮座しており、元々社地は神社の前にある菰池(こもいけ)という小さな溜池の南側の丘陵(字丸山)にあったとされます。古い神社で、天平2年(730年)の『大倭国大税帳』に石村山口神戸、大同元年(806年)の『新抄格勅苻抄』に石村神二戸、貞観元年(859年)の『三代実録』に正五位下などと記録がのこっています。大和志(享保21年刊▪︎1736年)では双槻(なみつき)神社と呼ばれている事から、用明天皇の磐余池辺双槻宮(いわれのいけべのなみつきのみや)の跡地とする説がある一方それを否定し当社は元、石寸山の水上にあったので、水利に関係していた石寸水分社とする説(大和志料)もあります。近年は桜井市の木材業界の守護神として知られています。とあります。
上記桜井市のサイトによると、石寸山口神社は江戸時代の文献に双槻神社と呼ばれていたことから用明天皇の皇居跡であるという説と、そうではなくて当社は石寸水分社であるとする説があるとなっています。山は水源であるところから山の神を祀る山口神社は水にゆかりのある神でもありますから水分神社であったということになります。ただ現在の石寸山口神社は所在地が「谷」ですから、山という感じではないようです。石寸と名前が付くのに石寸(いわれ)川があります。この川の別称は八釣(やつり)川と言い、八釣川は大和川水系の河川。桜井市高家(たいえ)の山中を水源とし、明日香村の飛鳥坐神社の下で北に転じ、橿原市出合町(であいちょう)で米(よね))川に合流。米川は寺川に合流します。もう一つの用明天皇の皇居跡についての説は『大和志料』では否定されていますが、そういう説が唱えられた背景も含めてこの神社のことをもう少しみてみることにします。