藤ノ木古墳ー第1次発掘調査
藤ノ木古墳の発掘調査は、昭和60年(1985)から平成18年(2006)にかけて6次にわたって行われました。発掘を主導したのは斑鳩町教育委員会と奈良県立橿原考古学研究所です。
第1次発掘調査は、昭和60年(1985)7月22日から12月31日まで実施されました。この調査では、全長13.95mの横穴式石室と刳抜(くりぬき)式の家形石棺が発見されました。石棺と奥壁の間には金銅製鞍金具などの馬具類や武器▪︎武具類、鉄製農耕具(ミニチュア)などが出土しました。「金銅(こんどう)」とは銅に金メッキをほどこしたもの。馬具は金銅製が1具、鉄地金銅張りが2具の計3具が出土。そのうち金銅製のものは古代東アジアの馬具の中でも最も豪華なものの一つであるといわれています。金銅製鞍金具は、鞍の形が鞍の前輪(まえわ)と後輪(しずわ)がともに垂直に立ち上がる鮮卑式であり、ペルメット(植物文様の一種)、鳳凰、龍、鬼面、怪魚、象、獅子、兎などのモチーフが使われています。鮮卑系国家北燕の首都があった中国遼寧省朝陽市付近で発掘された鞍金具に同様のモチーフを持つ例が見られますが、日本、新羅、百済、伽耶(かや)いずれでも他にはまだ同様の鞍の出土例がなく非常に珍しいものです。他に玄室右袖部からは多数の須恵器、土師器が出土し、それらに混じって江戸時代の灯明皿もありました。このことは、近世に至るまで、この石室内で被葬者に対する供養が行われていたことを示しています。
第1次の発掘調査では、石棺の外側から金銅製の馬具や武具が発見されており、その中でも鞍は鮮卑系の首都があった朝陽市付近から発掘された以外に類例のない珍しいものだとあります。さらにこの金銅製の鞍は東アジアの馬具類の中でも最も豪華なものの一つだとあります。これだけ豪華な副葬品が納められていることからも被葬者が身分の高い人物であったことがわかります。
鮮卑(せんぴ)は、紀元前3世紀から中国北部と東北部に存在した騎馬民族。その起源は、匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)が東胡(とうこ、中国の春秋戦国時代から秦代にかけて現在の内モンゴル東部~満州北部に住んでいた遊牧民族)を滅ぼした際、その生き残りが烏桓山と鮮卑山に逃れ、それぞれが烏桓(うがん、紀元前1世紀から紀元後3世紀にかけて、現在の内モンゴル自治区に存在していた民族)と鮮卑になりました。北燕(ほくえん)は、鮮卑系の漢人将軍馮跋(ふうばつ)が、後燕王を廃して建国した五胡十六国の一つ。存在したのは407~438年。首都は黄龍府すなわち龍城(りゅうじょう)で、現在の遼寧省(りょうねいしょう)朝陽市(ちょうようし、チャオヤン)。遼寧省の省都は瀋陽(しんよう、シェンヤン)。他に主要都市として大連(だいれん、ターリエン)があり、日本人にも馴染みがあります。朝陽市は遼寧省の西部に位置し、南は河北省、北は内モンゴル自治区赤峰市(せきほうし、チーフォン)と接しています。市の面積は遼寧省の総面積の約7分の1を占める広大なものです。
ぺルメットとはいわゆる唐草模様のことを言います。