賀茂競馬の2ー倭文荘の2
競馬が上賀茂神社で行われるようになったときに、その費用に充てるために20ヵ所の荘園が寄進され、その荘園から馬が一頭づつ献上されました。このことから、現在でも出走馬にはゆかりの名前が付けられます。今は20頭ではなく、12頭で行われますが、最初に走るのは倭文荘の馬と加賀国金津荘の馬と決まっています。まず倭文荘の馬が先に走り、金津荘の馬が追いかける形で出走しますが、金津荘の馬が追い抜くことはなく、必ず倭文荘の馬が勝つことになっています。まさに出来レースです。その後は真剣勝負となります。また、倭文荘の馬は他の馬とは違って豪華な装束をつけます。倭文荘の馬は特別待遇ということになります。
どうして倭文荘の馬が、上賀茂神社の競馬会神事において,真っ先に登場し、しかも必ず勝つのでしょうか。それについて、津山朝日新聞社の記事がネットにあります。それを見てみることにします。
歴史学者で津山市史編纂委員の前原茂雄さん(津山市加茂町出身、真庭市在住)が公家の史料を基に解き明かし新説として発表した。「平安時代以降の国家•朝廷にとって、国名の『美作』は特別な意味を有する言葉であり表記だった」と話す。美作の漢字は「美しく作る、生産が上がる、実のりが多い、国が富む」などのイメージを強く持つ国名。そのため朝廷行事で「美作」は欠かせなかった。それは、賀茂競馬が始まった時期に公家たちによって書かれた記録によって裏づけられるという。前原さんはそれらを綿密に分析した上で、五節会(ごせちえ)などのめでたい宮中行事に「美作守」がつねに関与し、「美作童女」が舞った事実などを確認した。また宮中や公家の慶事でたびたび奏でられた曲に「美作」があり、年頭の儀式で形式的に取り交わされた文書も「美作国」と書かれたものに集中していたことを突き止めた。「国家が期待した五穀豊穣の願望を体現する表記だったからこそ、『美作』は朝廷で重要視された」と考察する。これを根拠に、宮中の古儀を今に伝える賀茂競馬で最初に登場し、必ず勝利する理由を「倭文庄の馬がほかならぬ美作国の馬だから。その勝利は1.年の五穀豊穣などを約束するための必然と言える」と結論づけた。また前原さんは久米地域の歴史について、「江戸時代以前のあり方を示す手がかりが多く残っており、再評価すべき」と強調。地名の「一色」「里公文」「領家」などは中世(1000~1600)にさかのぼるもの。京都にある真言宗御室派の本山•仁和寺の領地として、大井庄が存在したことも注目に値するという。「地域に残る古文書、石造物、地名•屋号などをきちんと記録して残すことは、地域だけでなく、都との関係や国家•社会を考える上で貴重な材料になりうる」と話している。2月に開かれた久米地域の高齢者学級「格致大学」で講演、発表した。以上です。2020年4月16日の記事。
津山朝日新聞社は津山市田町(たまち)13番地にあり、岡山県北部の3市5町2村(津山市、真庭市、美作市、鏡野町、勝央町、奈義町、久米南町、美咲町、新庄村、西粟倉村)を中心に日刊発行している夕刊紙。明治43年(1910)7月に作陽新聞として創刊。大正6年(1917)に美作新聞と合併して津山朝日新聞となりました。