文殊院に伝わる衛門三郎の伝説の1ー旅立ちまで

 衛門三郎の屋敷跡に建つ文殊院にも衛門三郎の伝説があります。既に書いています石手寺やウィキペディアの伝承と比べてみてください。引用はウェブサイト「空海」からです。
昔、弘法大師が巡錫(じゅんしゃく)の折り、伊予の国上浮穴郡(かみうけなぐん)荏原(えばら、現在の松山市恵原町)へ立ち寄られたところ、一人の童子が大師の前に現れ、「ここに罪深い人が住んでおります。改心させて来世の鑑(かがみ、先達)にしてはいかがですか」と告げると何処となく立ち去って行きました。すると豪雨になって大師は徳盛寺に宿を請われました。大師が本堂でお経を唱えておりますと、文殊菩薩が現れました。先程の童子は文殊菩薩の化身でした。その後、徳盛寺は文殊院と呼ばれるようになりました。
この村には、衛門三郎という強欲な長者が住んでおりました。大師は衛門三郎の門前で托鉢の修行を7日間行いましたが、その都度、衛門三郎は追い返しました。そしてある時、衛門三郎が竹箒で大師をたたくと、手に持っていた鉄鉢に当たって八つに割れてしまいました。すると、八つの欠片は光明を放ちながら南の空に飛んでいき、南の山々の中腹から雲が湧き出てきました。大師は不思議に思い、山に登ってみますと、八つの窪みが出来ておりました。三鈷(さんこ、密教の法具の一つで、金属製で杵の形をしており両端が三つに分かれているもの。三鈷杵とも言います。※筆者注)で祈念すると、一番目の窪みからは風が吹き、二番目、三番目の窪みから水が湧き出てきました。この水は「八隆山八窪弘法大師御加持水」として涸れることなく、今も文殊院境外の山中に湧いています。
衛門三郎には、男の子5人と女の子3人おりましたが、大師をたたいた翌日、長男が熱を出して病気になり、亡くなってしまいました。それからは残った子供たちも次々に亡くなってしまい、衛門三郎は毎日毎日泣き暮らしておりました。大師は罪の無い子供たちを不憫に思い、山の麓に行き、手に持った錫杖で土を跳ねますと、その夜、土が大空高く飛んで行き、お墓の上に積み重なっていきました。このお墓が八塚と呼ばれ、今も文殊院の境外地に松山市の文化財に指定されて残っています。そして、衛門三郎の8人の子供の菩提供養のために、延命子育地蔵菩薩と自分の姿を刻み供養としました。また、法華経一字一石を写され、5番目の子供の塚に埋め、子供の供養を行って旅立ちました。
旅の僧が弘法大師だったと知り、前非を悔いた衛門三郎は子供の位牌の前で、妻に「お大師さまに会って罪を許していただくまでは家には帰ってきません」と別れの水盃をしました。白衣に身を包み、手には手っ甲、足には脚絆、頭には魔除けの笠をかぶり、右の手に金剛杖を持って我が家を後に旅立ちました。この姿が、お遍路さんの姿の始まりといわれています。


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