鈴木重家の後日談(6)ー金沢市の須々幾神社
加賀•能登•越中の奇談集『三州奇談(さんしゅうきだん)』四の巻の「大人足跡•小人足跡」に鈴木重家の子孫にまつわる不思議な話が収められています。「sanmoto.net」の記事を引用します。
八田村には、源義経の重臣だった鈴木三郎重家の塚とされるところがある。地元では今「三薄の宮」と呼んでいる。言い伝えによれば、重家から五代の子孫である新九郎という者が、この地に来て百姓となり、湖のほとりで鱸(すずき)を釣った。その鱸はたちまち美女と化して、新九郎と夫婦になった。二人は久しく共に暮らしたが、あるとき「龍宮からお召しがあったので帰ります」と言って、妻は消え失せた。あとには一匹の鱸の死骸が残されたので、それを地に埋めて塚を立てた。その後、新九郎は富樫氏に仕えてこの地を領したが、某年八月十六日に死んだ。亡骸はやはりこの地に埋められた。こうして三つのスズキがそろったから、「ミスズキ」と言った。やがて薄(ススキ)も生え出たので、村人は一つの社に祀って「三薄の宮」と呼び、八月十六日には餅や酒を供えて祭を催す。ある年、祭礼を怠ったら、村じゅうが疫病に罹って苦しんだ。そこで社に詫び言をして十一月十六日に祭礼を執り行ったところ、村人はみな回復した。その後、薄が大いに繁茂し、それを伐ると血が流れた。村人ははなはだ恐れて、今なお祭礼を欠かさない。
『三州奇談』は江戸時代中期の金沢の俳人堀麦水(ほりばくすい)が編纂したもので、正編五巻99話、続編(続三州奇談)50話が収められています。成立は宝暦年間(1751~1764)から安永年間(1771~1781)の期間とされています。堀麦水は享保3年(1718)から天明3年(1783)にかけて生存。多趣味の人だったそうです。
文中にある湖は河北潟(かほくがた)です。河北潟は金沢平野の北部、日本海沿岸にある内灘砂丘でせき止められてできた海跡湖。干拓が進み、かつては汽水湖でしたが現在は淡水湖になっています。
須々幾(すすき)神社は、河北潟にほど近い住宅街の中にあります。所在地は石川県金沢市八田町(はったまち)57番地1。祭神は味耜高彦根(アジスキタカヒコネ)神、伊弉諾神、伊弉册神、蛭児神。石川県神社庁によると、この神社の創建は古く、奈良時代の養老2年(718)八田に魚取郡がおかれ、味耜高彦根神を開墾、農業の神として祀り「治田の宮」と称しました。その後、鎌倉時代の建久年間(1190~1199)井上荘の地頭職鈴木三郎重家が荒廃していたお宮を立派に建てなおし、これより「須々幾の宮」と呼び、後に「須々幾神社」となりました。大正14年(1925)多賀神社(祭神:伊弉諾、伊弉册)と比留児(ひるこ)神社(蛭児神)を合併して現在地に遷座し、現在は小濵神社の兼務社とあります。小濵神社は河北郡内灘町大根布(おおねぶ)3ー157ー11。
鈴木重家はこの地の地頭となり、荒廃していた神社を再建し、死後に塚が造営され、その後、重家の子孫の新九郎が鱸の化身と夫婦になり、妻が龍宮に帰ったあとに残されていた鱸の死骸をこの塚に埋め、さらに新九郎の亡骸もこの塚に埋められたことで、三つのスズキがそろったので「ミスズキ」と言っていましたが、やがて薄が生えてきて、一つの社に祀って「三薄の宮」と呼んだということが『三州奇談』の内容です。石川県神社庁にはこの伝承は書かれていません。また建久年間は重家が討死したとされる1089年より後のことになります。史実では建久年間に井上荘の地頭に任じられていたのは都幡(津幡)小三郎隆家(つばた•こさぶろう•たかいえ)です。いずれしてもこの伝承はミステリアスです。
鈴木重家はいわば、藤白鈴木氏のスーパースターと言える人物ですが、和歌山県ではほとんど知られていません。私も今回初めて知りました。もっと知ってもらえればと思い、6章に亘って記事にしました。