神武天皇系の国造系譜ー印波国造と仲国造
前章には出自を同じくする国造のリストを載せていますが、その中から神武天皇裔と分類されている印波国造と仲国造を取り上げて説明します。
印波国造は、「軽嶋豊明朝御世。神八井耳命八世孫伊都許利命。定賜国造」とあります。印波国造(いんばのくにのみやつこ、いんばこくぞう)が支配した地域は当時「印波国」と呼ばれ、後の下総国印旛郡(いんばぐん)に相当し、現在の千葉県成田市、佐倉市、八街市(やちまたし)、四街道市(よつかいどうし)、印西市(いんざいし)、印旛郡にあたります。軽嶋豊明朝御世は第15代応神天皇の時代で、神武天皇の皇子の神八井耳命(かむやいみみのみこと)の八世の孫の伊都許利命(いつこりのみこと)が初代国造に任じられています。印波国造に関係する神社として麻賀多(まかた)神社があります。所在地は成田市台方(だいかた)1番地。同市船形(ふなかた)834に奥宮があります。祭神は本社が和久産巣日神(わくむすひ)で、奥宮は稚日霊命(わかひるめ)。式内社。社伝によると景行天皇42年6月晦日、ヤマトタケルが当地を訪れ、杉の幹に鏡を懸け「この鏡をインバノクニタマオキツカガミと崇めて祀れば五穀豊穣になる」と言い、伊勢の大神を遥拝したのが当社の起源であるとしています。その後、応神天皇20年に伊都許利命が現在の成田市船形に社殿を造営し、その鏡を神体として和久産巣日神を併せ祀りました。この二神は「真賀多真(勾玉)の大神」と呼ばれ、推古天皇16年(608)、伊都許利命の8世の孫の広鋤手黒彦命(ひろすきてくろひこのみこと)が神命により現在の成田市台方に和久産巣日神を遷座し、それまでの社殿を奥宮としました。延喜式神名帳に記載の際、「真賀多真」が三種の神器の一つと同名であるとして1字取って「真賀多神社」に改称しました。後に一帯が麻の産地であることから麻賀多神社と改めました。旧社格は郷社。印旛郡市に18社ある「麻賀多神社」の総本社です。
仲国造(なかのくにのみやつこ、なかこくぞう)は、「志賀高穴穂朝御代。伊予国造同祖建借馬命。定賜国造」とあります
。仲国は後の常陸国那珂郡(なかぐん)、現在の茨城県ひたちなか市などに相当する地域です。初代の仲国造は、伊予国造と同祖の建借馬(間)命(たけかりまのみこと)となっています。建借馬命は水戸市飯富町(いいとみちょう)3475に鎮座する式内社の大井神社の祭神です。東茨城郡大洗町(おおあらいまち)磯浜にある国の史跡「磯浜(いそはま)古墳群」は仲国造の墳墓とされています。古墳6基があり、前方後円墳、前方後方墳、墳形が不明なものが2基ずつあります。また水戸市愛宕町(あたごちょう)2132にある、こちらも国史跡の「愛宕山古墳」は全長136メートルの前方後円墳で、5世紀初頭の築造で、仲国造の首長の墓と考えられています。『常陸国風土記』には、建借馬命は崇神天皇の時代に東国の賊を平定したという説話が記載されています。また、明治の『大日本神名辞書』では夷賊退治の功により仲国造に任じられたとあります。
ここに取り上げた二人の国造のうち、印波国造は祖先の名前として神八井耳命の名前が出ています。一方の仲国造の方は神八井命の名前は出さずに伊予国造と同祖としています。また印波国造は応神天皇により国造に任じられていますが、仲国造はそれより前の成務天皇によって国造に任じられています。成務天皇は多くの国造を任命していますから、その一人です。ここで面白いのは仲国造が賊を退治した功績で国造に任命されたという記事です。この二人の支配地域は蝦夷と接近していますから、どちらも国造としてヤマト王権の勢力拡大に励んだことと思われます。