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安部公房の小説から考える身体の零度

身体の零度とは、人間の身体や振る舞いが社会的規範や慣習によって加工・均質化されたものではなく、真っ新でニュートラルな状態であることを示す。しかし今日の私たちは社会に監視され囲い込まれ、均質化されつくし、身体の零度とは程遠い自己を用いて日常を消費している。したがって、もし己の身体を身体の零度に近づけたいのならば、限りなく社会から逸脱した唯一無二の自己意識を持ち合わせることが必要となる。「本来自己とは『かけがえのない存在』であると自覚することによって達成される」。哲学者ハイデガーの言葉であるが、今回取り扱う安部公房の作品の世界はこの考えと真逆で、自己つまり人間は代替可能な存在として描かれている。本文では、安部公房のいくつかの作品を通じ身体の零度を考えることで、均質化からの抜け道を探りあてていきたいと思う。 


 社会から逸脱し、均質化を崩すにはどのような方法があるのか。現実的な手段であればアートのような芸術的活動が思い浮かぶ。産業社会における、資本主義的商品の生産に内包された変化から特定の技芸や目的を守ろうとしたアートは、現代に至るまで均質化から逸脱する手段として用いられてきた。また監視社会の未来を予想した「PSYCHO-PASS」や「マイノリティ・リポート」などの映像作品では、犯罪が均質化から抗う手段として描かれている。では、安部公房の作品の場合はどうか。答えは「社会的な死」である。安部作品の主な舞台は極端な合理主義社会、つまり人類の文明発展のため徹底的な効率化が敷かれた世界だ。この世界では主に、富める人々と均質化された労働者の対比構造がみられる。そして均質化され搾取され続ける主人公たちが、社会的な死を皮切りに存在権を失うことで、身体の零度を経験し、後に機械や棒、繭、水、といった無機物に身体を変化させたり、名前を無くしたり箱を被るといった新たな身体加工を施す。社会的に死に、身体を変化させることで無理やり均質化から脱却するのである。


 例えば「R62号の発明」という作品では、仕事をクビになり社会に絶望した自殺志望の機械設計士が、生きたまま自分の死体を売ったことで、富める人々によりR62号という名前のロボットにされてしまう。彼は社会的な死を遂げた後、偶然にも自分の身体を機械に変えられたことで、均質化された人間という存在から逸脱する手段を持つ。R62号として労働を強いられた主人公は、最終的に人間を酷使する機械を開発し、自分をクビにした経営者を殺し人間に復讐する。これまで、富める人々は労働者の人間性を無視し、合理的な社会でどれだけ自分たちのしもべとなり得るかという点ばかり重視することで、労働者を代替のきく消費物のように扱ってきた。しかし主人公が人間社会から完全に脱却し、身体の零度を経てロボットとしての新たな社会規範を持つことにより「機械対人間」という新たな社会構造を創り出し、「富める人々対労働者」で設計された人間社会の均質化が崩壊する。富める人々は、今度は自分たちが機械から搾取される側になることで、人間すなわち自己はかけがえのない、代替不可能な存在だと痛感するのだ。

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 現在の社会を逸脱し、身体の零度を経験した人々がまた新たな社会を作り出すことを何よりも均質化する側は恐れている。安部作品において、富める人々と労働者の対比構造の他によく見られるのがストライキを起こす労働者に怯える富める人々という描写だ。ストライキとは労働者による争議行為の一種であり、労働者たちが自己を持つことで均質化からの脱却を図る運動である。一人一人が労働を放棄し一旦社会的に死ぬことで身体の零度を経験し自己を形成した集団によってストライキは構成されている。「洪水」という作品でも、労働者は身体の零度後、水に変化し束になってストライキにも似た洪水で富める人々を流し、これまでの社会を清算することで新たな社会を形成する描写がある。
 

以上のことから、安部公房は社会的な死を介し、身体の零度を通過した後施された身体加工の在り方によって何通りも新たな社会が形成されるといった、均質化からの出口、そして身体の零度から未来に向けての入口を数々の作品に投影していたのではないかと考えられる。勿論私たちの身体は無機物になることはできないし、箱を被る、名前を無くすといった安部作品に出てくるような身体加工は難しい。けれどこれらは単なる例に過ぎず、均質化から脱却し新たな社会を形成する方法は、アートや犯罪に限らず、この世にたくさん存在するということを安部公房は作品を通じ、伝えたかったのではないか。インターネットが普及した現代、情報が張り巡らされた社会では今日も絶えず均質化が進んでいる。しかし一方で、先の見えない混沌とした社会に囲われることに疑問を持つ人々もいるだろう。一度既存の社会から脱却し、身体の零度を経験することで、均質化を壊す自分らしい身体を手に入れる。そうすることが、均質化が加速する今だからこそ求められているのではないか。これからの身体を縁取る一手は、私たちの手に委ねられている。
 

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