5月23日「中華まんの食べ方」
お題:粉骨砕身、率先垂範、慇懃無礼
2021年5月23日の日記。
中華まんが好きだ。勿論フォルムも味も総じて好きだが、中華まん一番の魅力と言えば「皮」だろう。中華まんを食す時、爪を使って皮をはいで食べる。人によってはこの食し方に不快感を覚えることがあるので、中華まんを誰かと共に囲う際は相手選びを慎重に行うべきである。会話の中で、「中華まん」「皮」「はぐ」といった単語を散らしてみるのがいいかもしれない。いや普通に聞けばいいのか。「中華まんってどうやって食べる?」と。
一番困る回答は「普通に食べる」である。普通ってなんだよ。ひとによっては粉骨砕身「(中華まんをグーで叩いて粉々に粉砕して)普通に食べる」みたいなひともいるかもしれない。これはちょっと異常だ。だがしかし本人からしたらそれが普通なのである。だから困る。
私は率先垂範な人間になりたい。しかし、もし中華まんを集団で食べなさいと命令されたら、そこで真っ先に爪で皮をはぎ中華まんを食べることは難しい。率先垂範できる人間ではありたいが、個性を出して品を欠き、食べ方で周りからの信頼を落とす人間にはもっとなりたくないのだ。『個性とは、余分にある邪魔なものを隠して調節するものであり、少ないものを絞り出したり、無いものを捏造することではない。(by又吉さん)』。分かる。けれど中華まんの場合、私にとっては個性ではなく日常の1ページとしてさらけ出したものが、相手には捏造された個性のように感じ取られ、何もないくせに個性派ぶりやがってとかもっと社会に迎合しろとか本当に品がない奴だとか不快感を与えてしまったらどうしようと不安になる。普通を無理した個性だと誤解され切り捨てられるのは勘弁して中華ま~んって感じである。なに言ってんの?すみませんでした慇懃無礼。
個性が渋滞した現代の弊害ですかね。普通が一番難しいしそもそも普通ってなんだよって思うしあか牛黒毛にお肉はジューシー。
一方で、私の中華まんの食べ方を見て不快に思わない人もいる。余計な心配をしなくていいから楽だ。しかし問題もあった。数年前の真冬日、中華まんをいそいそと購入し友人宅で食べたことがあった。友人は「中華まんだ~!」と喜び、中華まんをぎゅっぎゅっと左右から圧力をかけ潰していた。中華まんは潰れたモルカーみたいになっていた。
参考:潰れたモルカー(1分31秒)
正直めちゃくちゃびっくりしたし、引いた。が、この友人なら私の食べ方を見てもスルーしてくれるかもしれないという微かな期待が胸に灯った。私も「ホカホカだね」なんて相槌をうちながら爪で中華まんの表面をなぞり、はいだ。心臓がバクバクと振動し、口はカラカラに乾いた。炬燵に入りきらない背中に冷や汗が流れた。中華まんから友人へ視線を上げると、はたと目が合った。汗が止まらない。すると友人は笑いながら言った。「ハレンチだねえ」。
ハレンチ?????????
えっ、どこが?なんて聞けなかった。放つ言葉を審査している内に、友人は潰れたモルカーまんを口に運びテレビを見て笑っていた。
ハレンチの所以をしばらく考えていたら、友人と私は中華まんの皮に対する認識が違うのではという結論に至った。友人は、中華まんの皮を服に見立てており、皮をはぐ行為はまるで服を脱がしているかのように感じたのかもしれない。もしそうなんだとしたら、それは確かにハレンチだ。めっちゃハレンチ。
しかし、私の場合は違う。中華まんの皮は皮膚であり、皮をはぐという行為は解剖に近い。皮をゆっくりとはがし、最も皮膚の薄い場所に爪を立て、丁寧に中身を掘り進め、中身が抜けた空洞を覗きこみ、極限まで五感を用いて解像度をあげ、中華まんを味わい尽くすのだ。
こう表現するとグロく聞こえるが、解剖がしたいけどできないんで中華まんで代用してるんですよみたいなサイコな話ではない。
皮をはぎ爪を立て、静謐にけれど大胆に追い続け、本質を掘り当てる。そんな食べ方が、どこか他人を知る工程に似ているなと感じるのである。
私は友人が少ないので、知らぬ間に円滑なコミュニケーションや仲を深めるために他人を知りたいという欲求が人一倍あるのかもしれない。
そのため、中華まんを食べる際も、その欲求があふれ出て皮をはいで食べてしまうのかもしれない。
こないだ、潰しモルカー食べしていた友人と話す機会があった。私は友人に、中華まんの食べ方を聞いてみた。彼女は「普通だよ~」と笑い、「普通にかぶりつく!」と言った。かぶりつくジェスチャー付きで。その手に握られたエア中華まんはもう縦に潰れていなかった。
ただ横にめちゃくちゃ引き伸ばされた状態でかぶりつかれていた。
それを見て私も笑った。
写真は全く関係のない、いつかの焼肉です。みんな違ってみんないい。