2022/8/27「コンプレックス、コンプリート」

 個性を受け入れようと上から抱きしめようとする風潮も嫌いだし、個性を誇りに思っている奴らにも腹が立ってしょうがない。個性とは、自分からはみ出た余計なものを、偶然見かけた他人がたまたま許容してオブラートに包んで出来上がったものだ。
個性とは使用済みの油みたいだと言ったらお米のとぎ汁じゃない?と返してくれた友人はどこへやら。あれは本当に友人だったのか。私が規定した友人というカテゴリに割り振っただけで本当は誰のものでもない、何の名前もついていない歩くタンパク質だったのではないか。歩くタンパク質ってなんだかかわいいな。ラジオネーム歩くタンパク質。恋するウサギちゃんに次いで良い。

自分がどんどんすり減っていくと、やいの社会だ人間だ時代だのせいにしたくなるが、実は上から押さえつけて鰹節を研ぐみたいな行為に勤しんでいる正体は自分だったりする。他人が気にせぬコンプレックスは年齢と共に積み重なり、一人で勝手に磨耗される。重い重いコンプレックスも、他人からみたら軽い薄いフワフワとした鰹節のようで、皆んな自分が1番大変なモノを背負っていると、背負わなければならないとこの時代の十字を背負う存在になろうともがき苦しんでいるのである。十字を背負った人間たちを上から見たならばそれはさながら巨大な墓場のようで、薄気味悪くも美しい地球は今日も今日とて回転を続けるのである。美しい地球にとってのコンプレックスは、宇宙からみたその薄気味悪さかもしれない。だからどの角度からも見えにくいように回転しているのかもしれない。地球にだってコンプレックスはあるのかもしれない。
しかしながら、考え方を天動説から地動説のように一転させると、地球が回転しているのは他の星に自身のコンプレックスを見せつけているのかもしれない。いや、なんならコンプレックスなんて認識ないのかもしれない。
そもそも自分の抱くコンプレックスと他人が自分を見たときに抱くコンプレックスの乖離は距離にして夜空に浮かぶ星のように遠いものだろうし、ボーッと生きている限りはその距離を埋めようだとか思わないで、ただホリエモンが打ち上げたロケットの映像をゆっくりと思い出して1日を終えたりするのである。

話がどんどん逸れているが、とにかく宇宙人か地球人かを見極めたければ、お互いのコンプレックスを打ち明けあうのがいいのかもしれない。いや、宇宙人にもコンプレックスはあるのか。なんの話かわからないし、何より私は話にオチをつけられないのがコンプレックスなのだ。

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