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「一生ここにいたい」 出会った町の人の強さと優しさに惚れて。【おもせ〜ひと vol.6】

福島県大熊町の”おもせ〜ひと”(=面白い人)を数珠つなぎ形式でご紹介するインタビュー企画「おおくままちの”おもせ〜ひと”」。

6人目にご紹介する”おもせ〜ひと”は、2019年4月に大熊町へ移住し、大熊町をフィールドに幅広く活動されている佐藤亜紀さんです。

佐藤亜紀さん
千葉県ご出身。大熊町在住。双葉町にお母様のご実家があり、幼少期から双葉町・大熊町・浪江町にはよく訪れていたそう。震災をきっかけに、2014年から大熊町の復興支援員として7年ほど働かれ、2019年4月の大川原・中屋敷の避難指示解除と同時に大熊町に住むことに。
現在は、HITOkumalab(ヒトクマラボ)という屋号で開業されており、一般社団法人HAMADOORI13で若者の企業支援を行ったり、大熊音楽連盟で音楽活動を行ったり、平馬会にて伝統芸能の保存継承に携わったりと、幅広く地域に関わる活動をされています。

「おもせ〜ひと」の連載をはじめるにあたり、「誰にお話聞くと良いですかね?」と色々な方にお伺いしたのですが、どなたに聞いても真っ先にお名前が上がったのが亜紀さんでした。

とっても気さくなお人柄で、町やイベントでお会いすると、いつも声をかけてくださります。

自らを"大熊オタク"と称する亜紀さん。
出身ではない大熊町に、強い思いを持つようになった背景や、大熊町の"人"の魅力、亜紀さんを動かす原動力などについて、お話をお伺いしました。

⏬亜紀さんのnoteアカウントはこちら⏬


大熊町に関わるまでの経緯

「東京にいると何も分からなくて」

━まずは、簡単に自己紹介をお願いします。

亜紀:佐藤亜紀です。2014年から2021年3月まで、大熊町復興支援員をしていました。
大熊町に住み始めたのは、2019年4月。大川原・中屋敷の避難指示解除があった時からです。

━どのような経緯で、大熊町で働くことになったのでしょうか?

亜紀:私、双葉町におばちゃん家があって。双葉町に遊びに来るっていうのがすごく多かったから、自分的にも双葉町は自分の田舎って感じが強い。
だから大熊町とか浪江町とかもよく行ってて、わりと思い出深かった。

双葉町は大熊町のお隣

亜紀:だから、原発事故がものすごくショックで。その時は東京にいたんだけど、「いやいや大変なことになったな」と思って。自分が生きているうちに、双葉郡がこういうふうに(避難指示が)解除になるなんて、あの時は思えなかった。もうずっと行けない場所になるかもしれないと思って、お墓参りすらいけないんじゃないかなっていうのがすごくショックで。

それで、東京に住みながらも、被災地と呼ばれる場所に対して、何かできることがあるのかなって考えてた。でも、自分には何ができるのかとか、原発事故が起こってしまったのにこれまでと同じように生きていくのってどうなんだろうっていうので、3年くらい悩んじゃったんだよね。

でも、東京にいると何もわからなくて。震災から3年も経つと、3月11日くらいにならないと、福島のことって話題にならない。「福島の原発事故が…」とかって、友達に話しても「亜紀ちゃんまだそんなこと言ってるの」みたいな感じだったから、それも辛くて。いやいや、原発事故もまだまだ終わってないし、避難している人たちもいるしって。

だけど自分も、おばあちゃんとか親戚とか、双葉町の人たちから聞いたこととか、ニュースでやってることくらいしかわからなかった。
だからやっぱり、双葉町か大熊町、原発が立地している町で仕事をしたいと思って。それで探し始めて、たまたま縁があったのが、大熊町の復興支援員のコミュニティ支援担当だったっていう。

大熊町での仕事 〜復興支援員・HAMADOORI13〜

「ほんと、みんなかっこいいんだよ」

復興支援員をされていた時の餅つきの様子

━実際に復興支援員のお仕事をされて、いかがでしたか?

亜紀:最初は、まあ3年くらい働いたら、東京に帰るのかなって思ってたんだよね。採用してもらったばかりの時は、自分に何ができるか、役に立てるのかとかわからなかった。わからなかったけれど、「知りたい」っていう自分の欲求だけで行った。

でも、実際に行ってみたら、コミュニティ支援っていうたまたま選んで与えられた仕事だけれど、「ああ、こんなの一生かけても絶対知りきれないし、やりきれないな」って思った。

それで、勤めて半年くらい経ってから、「ここからは絶対動きたくないし、大熊町の避難指示が解除されれば私も住みたい」って思った。
その時から全然気持ちは変わってないな。

━最初は3年のつもりだったのが、半年間で気持ちが大きく変化したんですね。そこまで心が動かされたきっかけはなんだったのでしょうか。

亜紀:いっぱいあるんだけど、凝縮していうと、復興支援員の仕事って、町の人といっぱい話させてもらえる仕事だったんだよね。
その時に、原発事故が起こって、避難して、すごく大変な状況に遭ったのに、それでも今も町のために頑張っている人の話を聞いて、今まで人に感じたことのないような尊敬の気持ちが生まれて。

だから私、大熊の人をすごく尊敬してて。
「本当にすごいな」っていう出来事をいっぱい聞いたことで、惚れちゃったっていうか。大熊町の人を好きになったっていうのが1番のきっかけ。
ほんと、みんなかっこいいんだよ。

町を多角的に捉えたいという思いで転職を決意

━復興支援員のお仕事のあと、転職されたと伺いました。転職はどういった経緯でされたのでしょうか?

亜紀:HAMADOORI13っていう団体に転職したんだけど。復興支援員、本当にいろんな体験させてもらって、楽しくて、7年くらいやってたのかな。行政にすごく近い仕事だし、ずーっとそこにいるっていう選択肢もあったと思うんだけど、これからあと30~40年くらい生きられるとしてこの町や地域のことを考えた時に、ここだけにずっといるのはちょっと勉強不足かなって思って。

仕事の中身も、コミュニティ支援と、町公社が持ってる業務のことしかわからないというか、そういう目線からしか町を見れないのは、なんかちょっとなあと。もう少し違う目線から見て、町を多角的に捉えていってもいいかなと思ったし、今までの10年間って、行政が中心になって復興を頑張ってきたけど、これからはもっと民間が育たないといけないんじゃないかって思うようになって。

その時に、HAMADOORI13の代表が、「浜通りの青年が中心になって広域連携する」っていうのを掲げているんだっていう話を聞いてすごいピンときた。「HAMADOORI13で働きたいです」って言ったら、「わかった、OK」ってなったのが、転職したきっかけ。

伝統芸能の継承・保存

「今まで自分がやってた音楽って、全然音楽じゃなかったな」

9/3に行われた夏祭りで歌う亜紀さん。素敵な歌声に思わずうっとり…

━亜紀さんは、伝統芸能の保存継承の活動もされていると伺いました。伝統芸能には、どういったきっかけで携わることになったのでしょうか。

亜紀:震災があって、原発事故が起きて、「人がやらなければ形にならない無形のものってどうなっちゃうんだろう」って、すごく気になったんだよね。

建物とかって、壊れたりしててもとりあえず残ってたりするけれど、文化とか伝統とか、無形のものってどうなるんだろうって。

━元から文化や芸能に興味をもっていらっしゃったんですか?

亜紀:私、ずっと音楽やってて。それもあってそこに目が向いたのかもしれない。伝統芸能について、詳しくは知らないんだけど、どうなってるんだろうって、知らないのに興味があって。

そしたら、東京で復興支援員の採用説明会に参加した時に、業務の中に「伝統芸能の保存継承」っていうのが入ってて、「これだ」って思った。だから復興支援員になることを決めたんだけど。

━伝統芸能に関わるようになってから、印象に残っている出来事はありますか?

亜紀:復興支援員になって1ヶ月後くらいの時、会津の仮設住宅で簡易的にやぐらを組んで、大熊町の人たちが盆踊りをやっているところにお邪魔したの。

参加させてもらって、「かっこいい!」とか言ってたら、「やぐらの上、上がっていいぞ」とか言われて。そこで間近で見た時の衝撃が忘れられないっていうか。めっちゃかっこよかったの。本当にすごい。
「今まで自分がやってた音楽って、全然音楽じゃなかったな」って思うくらいの衝撃だった。

それに対して、ちょっとでも関われたらいいなって思ってやってたら、今になってたみたいな。

なつ祭り、やぐらの上で笛を吹く亜紀さん

原動力は"知りたい欲"

━亜紀さんは、HAMADOORI13や伝統芸能、音楽活動など、本当にいろんなことを手広くやられていますよね。

亜紀:ね〜。ついついね(笑)。

━ついついなんですか(笑)。

亜紀:ついついっていうか、やっぱり”知りたい欲”っていうのが基本的にあって、自分は外からきた人間だから、知ることができるのが楽しい。

あとは、先輩たちの話を聞くのが楽しいんだよね。60,70代かそれ以上で、生まれも育ちも大熊町で、大熊町のことがすごい好きで、大熊のみんなのことを考えている先輩とかいて、その人たちと過ごす時間が楽しいし大事。
だから、ついついそういう人たちがいるところに行っちゃうんだよね、そのうちに仲間にしてもらっている感じ。

━「知りたい」という気持ちが活動の原動力になっていらっしゃるんですね。

亜紀:それはすごいあるかも。大熊オタクなんだよね(笑)。
大熊オタクのオタクでもあるかもな。蛍にすごく詳しい先輩とか、町の歴史にすごく詳しい先輩とか、そういう人たちも大好きだから。

大熊町のこれから

今すでにある素晴らしいものを"見える化"させる

━亜紀さんは、これから大熊町でどんなことをやっていきたいですか?

亜紀:結構さ、ここに大学生とか、インターン生とか来てくれた時に、しょうがないとは思うんだけど、課題がすぐ目についちゃうじゃん。人がいないよねとか、更地が多いとか。

でも、大熊町には目に見えないものも含めて、いいところがいっぱいあるし、そういうのを見つけてもらいやすいようにするために、いいところの”見える化”をちょっとずつやっていきたいなって構想がある。

今すでにあるものが素晴らしいと思ってるから。
外から何かを(取り入れる)っていう発想は私は一切なくて。元々大熊町にあるもの、いる人って、すでに他にはない面白いところ、尊敬できる部分をもってる。

でも、そういういいところって、大熊にパッと来てもわからないじゃん。
だから、それをどうかっこよく、みんなにわかりやすく、私の中だけでとどめないで表現できるかみたいなことを、これから長い時間をかけてやっていけたらいいなって。

━今すでにあるものの魅力を生かしていくということですね。

亜紀:ここにいる人が、そういうここにある良いものに触れられて、楽しく暮らせれば良いよね。

━他にやりたいことはありますか?

亜紀:あとは、ついつい自分のいる町ばっかりに、「大熊町」に目がいきがちだけど、町って視点だけじゃなくて、近隣の町村とか、もっと広域的に、「この地域」っていう視点をみんなで持てたらいいんじゃないかなって思う。そういうふうに暮らしていきたいというか。

実際、近隣の町村と支え合って生活していると思うし。そんな感じで、みんなで全体を考えられるようになったらいいなと思ってる。

それから、個人的には、実は超やりたいのは農業で。こういうことになった土地だけど、自分が住んでいる町で取れた野菜を食べて暮らすっていう生活を、死ぬまでにもっとしっかりやれたらいいな。

コスモスの種まきをする亜紀さん

「この人たちとずっと一緒にいたいから、私も大熊にいたい」

━亜紀さんが思う、大熊町の魅力ってなんでしょうか。

亜紀:人(即答)。

大熊町の人たちって、本当に色んな経験をされていて、強くて、優しくて、とにかくすごい尊敬の念を抱かせてくれる。

そういう素晴らしさがあったから、大熊町に実際に住む前に、大熊に住むんだって決められた。この人たちとずっと一緒にいたいから、私も大熊にいたい。そう思えたのって、すごいことだなって思う。

━最後に、この記事を読んでいる方へメッセージをお願いします!

亜紀:大熊町のことをそもそも知らなかったり、最近行ってないなみたいな方がもしいるのであれば、まあとにかく、一度来て欲しいなって。

どんどん町も変わってるから、それをまず自分で体感して欲しいというか。
来ないとわからないことってたくさんあったでしょ?実際来てみたら「へえ〜」だよね。

大熊町ってどういうところですかって質問されたら、説明がめっちゃ長くなっちゃうと思う(笑)。
こうでこうで、こういうこともあって…でも、楽しいです!っていうのは最終的に伝えたい。

とっても楽しく暮らしているし、楽しく暮らせる工夫をこれからもしていきたいなって。


編集後記

インタビューでは、大熊町について語る亜紀さんの表情が、とても生き生きされていたことが印象に残っています。本当に大熊町とそこに住む人たちのことが大好きで、町での生活を心から楽しんでいらっしゃるんだなと感じました。

「大熊町には、目に見えないものも含めて、良いところがたくさんある」というお話でしたが、こんなにも町と町の人に対して大きな思いをもち、楽しんで生活をされている亜紀さんがいること自体が、大熊町の魅力の一つなのではないかと思ったり。

また、亜紀さんが大熊町であらゆることに取り組んでいる原動力が、「知りたい」「すごい」「かっこいい」「面白い」といった、自分自身が実際に感じた思いであることも、素敵だなと思います。
自分自身の感情や体験を大切にされているからこそ、思いを絶やさずに、大きな熱量を持って活動し続けることができるのだろうなと感じました。

大熊町の人たちに尊敬の念を抱くとともに、その素晴らしさに魅せられ、大熊にずっと住み続ける決意をされた亜紀さん。

そうやって人の魅力が、町に人を惹きつけたように、この連載「おおくままちの"おもせ〜ひと"」も、「この人がいるから、大熊町に行ってみたい」と、誰かが大熊町に興味を持ったり、足を運んだりするきっかけとなることを目指したいと、改めて思わされた、そんなインタビューでした。

インタビュー:殿村・中井
編集:殿村

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