「たくさん作ると、たくさんの人に『おいしい』って笑顔をもらえるんです」大塚悠さん
東日本大震災から11年。その際、福島県にある大熊町は全町避難を経験しました。
現在は町の中心地の避難指示が解除され、新たに学校が新設されるなど町の暮らしが大きく前進しています。
そんな大熊町で栄養士として働く大塚悠さん。
同じく全町避難になった双葉町のご出身で、8年前から大熊町の福島復興給食センター株式会社でお仕事されています。
福島復興給食センター株式会社HPはこちら↓
福島復興給食センター株式会社は、2014年から福島第一原子力発電所の廃炉作業に従事される方々へ「温かい食事」を提供するために設立された会社です。
たくさんの人が一日中作業される中で「ほっ」と緊張がとける、そんな食事のひととき。
特に「働かれるみなさんのちょっとした『お楽しみ』になれば」と提供されている季節メニューは、給食センターのみなさんが腕をふるった力作ぞろい。
写真を見せていただくと、一目で「おいしそう!」「これ、何ですか?!」とワクワクが止まらない状態になってしまうほど。
そんな素敵なメニューを考えたり、食材の仕入れや計画を立てるのが栄養士である大塚さんのお仕事です。
毎日たくさんの人の食事を作るお仕事って大変そう・・・と思って伺ってみると「いや~、たしかにやることは多くてたいへんですが(笑)。毎日楽しく働かせていただいてますよ」とにっこり。
「作るのも食べるのも大好き!」という大塚さん。
今と以前のまちのこと、暮らしのことをお話いただきました。
被災して町を出て、再び町に戻るまで
「家には帰れないんだな」
大塚さん:僕は大熊町のお隣の、双葉町出身です。震災当初は葛尾村に避難したんですが、その時はまだ旅行感覚というか……。
それからすぐ親戚がいる福島市に避難することになって「家には帰れないんだな」って思いましたね。
―福島市ではどのような生活をされていたんですか?
大塚さん:避難所にいました。運動公園だったんですけど、避難所にいたのは一か月くらいだったと思います。
そこからは福島市で仕事をして、生活をして。「今後、元いた町に戻れるんだろうか」という思いは、その中でもずっとありましたね。
きっかけは「町に戻れるかも?!」という思い
―福島復興給食センター株式会社で働き始めたきっかけは、どう訪れたのでしょうか?
大塚さん:8年前、新聞で栄養士の募集を見つけました。
それまでずっと町の外で生活していたんですが、見つけるまで日々の情報収集は欠かしませんでしたね。ハローワークや知り合い、ネット記事など自分で調べられるものは手の空いた時間に見るように心がけていました。
新聞はたまに見るようになっていたのですが、そこでちょうど見つけた記事に「給食センター」があったわけです。
それから、「町に戻れるかも」という思いで応募しました。
実際仕事をはじめて「地元に帰ってこれたんだ」という感動は大きかったです。
―それまでの期間、いくつかの町で生活されてこられたと思います。それでもやっぱり、地元に戻りたいという気持ちを持たれていたんですね。
大塚さん:そうですね。なんでだろう?って考えると、すぐに答えが出てきませんが……。元々田舎生まれ、田舎育ちなので。都会より、この場所の空気感が特に好きなんです。
僕自身は町に戻れた感動が大きかったですし、給食センターで働く周囲の人も県内の人がほとんどでしたので、この場所でのギャップはなかったのですが……。
県外の方や、県内の方からも「放射能が……」「家に入る前に、外で服をはたいてきて」と言われることがありました。辛かったですね。
その数、一日2,000人分!給食センターのお仕事
たくさん作るやりがいは、たくさんの笑顔をいただけること
―一日2,000人分の食事ってすごい規模だと思うのですが、仕事を始める時たいへんではありませんでしたか?
大塚さん:元々地元の病院や学校の給食センターで仕事をしていたこともあって、びっくりすることはなかったですね。学校はアレルギー対応が細かくあるし、病院は調理の状態もさらに細かかったりして。変な言い方ですが、そちらの時の方が気を遣うことが多いよなと。
そういう意味では、今のお届け先は廃炉作業に関わる現場の方々。「ガツン!」と食べてくださる方々なので、献立も自由度が高くてやりやすい部分もあります(笑)。
たくさんのごはんを作るのもたくさんの方に食べていただけるのも楽しいですし、この職場では「おいしかった!」って声もいただけるのが大きなやりがいになっています!
―着任された頃はどんなことを考えていらしたんでしょうか。
大塚さん:「どんな人が現場(福島第一原発構内)で働いているのだろう」と考えていました。食事に関していえば、カップラーメンやコンビニ弁当などを食べている人がほとんどでしたね。だから、おいしくて温かい食事を提供したいと思いました。
また、食事がすこしでも楽しみにつながったらいいなという思いもあって、定期的に季節のフェア食を出しています。
メニュー以外の部分でも、たとえばクリスマスにはくじを手作りして、一等はブーツに入ったお菓子の詰め合わせ。当たった方はちょっと誇らしげというか、ニコニコしながら持って帰ってくださったそうです(笑)。
―大人になるとなかなかもらう機会がないですもんね(笑)
大塚さん:そうそう(笑)。こんなふうに反応をいただけるのもすごく楽しいし、本当にうれしいですね。
大変だけど楽しい!毎週5定食の献立作成
―給食センターでの栄養士さんのお仕事って、どんなことをされるのですか?
大塚さん:栄養士の仕事は、毎週5定食やフェアの献立作成、原価計算、仕入れや発注作業など。他にもこまごまありますが……。ちなみに、個人的に一番楽しいのは試食です(笑)。
なかでも一番苦労するのは毎週の献立作成ですね。
現場で働いている人に食を楽しんでもらいたいので、メインも小鉢のおかずも数週間、数か月は同じ品を出さないようにしています。
―小鉢のおかずも!すごい心づかいですね。
大塚さん:でも、あんまり面倒な作業を増やすと調理師さんや、現場で盛り付けをする配膳さんがたいへんになってしまうので(笑)。毎週、みんなで相談しながら考えています。
そんなふうに作ってお届けした食事ですから「おいしかった、また食べたい」という声をいただくと、やってよかった、またやろう!って意欲が湧いてきます。
―みなさんで力を合わせるからこそ、あの素敵な食事が作られるんですね。
大塚さん:この給食センターは特にそうですね。
栄養士をやっている人の中には「献立作成や交渉を担当するから栄養士は偉い」って思っている人もいるんですけど、僕はそうは思いません。
調理師さんや配膳さんにお願いすることもたくさんありますし、「おいしくて温かい食を提供したい、楽しんでもらいたい」という同じ思いを持ったチームの仕事だと思います。
震災前の町の景色、今の暮らし
―震災前の町の景色とは、どのようなものだったのでしょうか。
大塚さん:かつての町は、商店街があって。でも19時には閉まってしまうので、夜はやっぱりすごく静かでしたね。街灯も「ぽつぽつ」くらいしかない田舎の景色です(笑)。
僕が当時住んでいたのは、海が見える場所。
夜は2階のベランダに出て、静かで広い海を眺めながらちょっと考え事をしてみたり。そういう、ゆっくり過ごせる時間も好きでした。
僕の家は、双葉町の中に2か所ありました。そこは今、更地と中間貯蔵施設のエリア内になっています。元の家にはもう住めないんだな、とはやっぱり思いますね。
―これからの町、この地域にあったらいいなと思うものは何でしょうか。
大塚さん:今の暮らしであったらいいなと思うのは、買い物ができる場所や病院です。
でも、一番は『人』ですね。一度は人がいなくなってしまった場所なので。
人が戻ってきて、ライフラインもしっかりしていって。それでいて暮らしやすくなるといいなと思っています。
食にまつわる職業人として伝えたい
大塚さん:仕事ではなるべく地産地消を心がけていますが、現在食材の高騰にはちょっと困ってしまいますね。食材の変更も少なくないので、いち早く物価が安定し元に戻っていくことを望んでいます。
また、いまだに「福島の食材は……」と敬遠する人も少なくはないと思います。食材を検査しているので逆に「より安全ですよ」という事を伝えたいです。
編集後記
インタビュー中、終始ニコニコ気さくにお話しくださった大塚さん。
「栄養士って女性が多くって。学校でも男性は少なくて肩身が狭いんです(笑)」など、ユーモアたっぷりに教えてくださりました。
そんな大塚さんが、読者の方に向けてのメッセージに「福島県産食材」のお話をされたのが正直ちょっと意外でした。
福島県外で生まれ育った私にとって「福島県産」は、ブランド品のようなイメージがあります。
果物も野菜もお米もおいしい、お酒も加工食品も間違いない!
そしてそれは、この場所でおいしいものを作る技を持った人たちがいるからこそ。
飲食に関わっている人たちもまた、そのおいしさや現在の安全性を知る最前線の人なのだと思います。
たくさんの方と協力しながら、たくさんの方においしい食事を提供する。毎日その前線に立っているからこそ、伝えていきたい思いがあるのだと感じました。
大塚さんが働く福島復興給食センター株式会社では、現在「盛り付け・提供」の募集をされています。
こちらはセンター内ではなく、現地の食堂でお食事を提供するお仕事。
「ありがとう」「おいしかったよ」を一番最初に聞けるお仕事になります。気になった方はぜひお問合せください!
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