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生きる意味の探し方
「反出生主義」という考え方の記事が5月3日の『朝日新聞』に掲載されていました。「人間は生まれない方がよい」という考え方です。山本悠理という記者の記事ですが、その終わりに、森岡正博早稲田大教授の考え方を紹介して、「「私が生まれてこなかった」場合を、今ここにいる「私」が正しく想定することはできない。「生まれてこないほうが良かった」という思いは、比較出来ないものを誤って比較した結果であり、「私が生まれてくること」は善悪の評価軸を超えている。」と書いています。ここで私はジャン・ポール・サルトルの「実存は本質に先立つ」という「実存主義とは何か」という文章に見られた言葉を思い出しました。実存とは現実存在。本質とはそのものが何ものかということです。つまり、私達人間は何ものかである前に存在してしまっている、何ものでもない前に存在してしまっている、ということです。まず、在るのだから、いないことは想定できないのです。在ることが前提で議論が始まるのです。
私はこのことに十九歳のときに気が付きました。不幸にも、私が存在する意味を考え続けていたとき、私は私の存在する意味より先に存在しているのであって、存在を始めた時点では「私の存在する意味は無い」という気づき方をしたのです。同じことなのですが、この気づき方では存在する意味が無いかのごとき誤解を生じやすいのです。存在した後、私が何ものか、存在する意味は何かを、私が任意に決めるという所まで議論をすすめないと、間違って伝わります。私が任意に私が何ものか、私の生きる意味は何かを決めるまで、私の存在する意味は無いのです。
それでは、私は私の存在する意味をどう決めるのかという問題が生じます。この問題についてもいろいろな角度から考えてみました。サルトルに「人間は自由に呪われている」という言葉があるらしい(記憶が曖昧で典拠を指摘できません)のですが、どのように決めてもよいのです。ただ、どう決めるかの基準が決まらないと、どう決めてよいかわからない。人の役に立つべきか、とか、快なることを基準として優先順位をつける、とか考えました。人の役に立つことも自分の快に値する、快なるものにもいろいろある、直近の快、将来の快、本能的快、社会的快、人格的快、など快にも色色あります。どの快を満たすことを生きる意味とするのかを優先順位をつけて考えるということを考えました。ただ、その前提として、まず、自分にとって、存在していること自体に価値があるということを決めました。その事によって様様なことを味わい考えることができるからです。
自由に生きる意味を決めると書きましたが、実はその自由の範囲がけっこう狭かったりするのも人間です。その人が育った環境、回りの人達による影響、その人が積んだ経験やその人の能力などによって範囲が限られてきます。肉親も含めた他者が決めた生きる意味を押し付けられたまま、それとも知らずにそれが自分の生きる意味だと決めてしまうこともあります。ですから、より自覚的に、様様な知識を得て自分の生きる意味を決める範囲を広く知った上で、自分で決めることが理想的でしょう。それでも限界はあるでしょうが。
快か不快かで生きる意味を決めたり、行動原理にしたりする考え方は坂口安吾に見られます。これも典拠を示せませんが。この決定基準に疑問を呈する人もいるでしょう。快のニュアンスが良くないのかもしれません。身体的快ばかりではなく、心理的快も含みます。自己実現、何ものかになろうとして実現する努力をし、達成する喜びも含みます。喜びを快と簡略化して呼んだまでです。今のところそれ以外の判断基準を思い浮かばないのです。喜び、楽しみ、嬉しさ、心地よさ、快適さ、感動、そのようなものをすべて含めて、快、と呼んでいます。生存欲求、社会的欲求、自己実現欲求を満たすものを快と呼んでいます。それに自分で優先順位をつけてかなえていくことが生きる意味であり、何をするのか、どう順位をつけるのかは人によって異なるのです。自分で決めればよいことでしょう。それも自由ですが、どうするかを決めるのはその人の責任です。難しいですよね。
喜びを味わうことが生きる意味何を味わう何を喜ぶ(『寝惚亭新葉集』所収)